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カザフスタンの虎/ワシリー・ジロフの想い出

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カザフスタンの英雄はゴロフキンですが、その前に偉大な王者がいました。彼がカザフスタンプロボクシングのパイオニアです。

ワシリー・ジロフは1996年のアトランタ五輪金メダリストで、大会で最も優れた選手に贈られるバル・ベイカートロフィーも受賞しました。プロではIBFクルーザー級王者になりました。

1974年4月4日にカザフスタンのバルカシで生まれたジロフは幼少の頃はとても貧しかった。

ジロフ
「父親がおらず、母が6人の子供を育てていました。母はいつも働いていて、僕らは少しでも母を助けようとしていました。」

若いころはレスリングをしていましたが、友人の紹介により11歳でボクシングに転向しました。

1992年にヨーロッパジュニア選手権優勝
1993年と1995年には世界選手権で銅メダルを獲得しました。

彼のトレーナー、アレックス・アパシンスキーの訓練は厳しいものでした。

ジロフ
「ジムには100メートルくらいの長い廊下があって、ドイツの牧羊犬がいて私を追いかけてくるのです。廊下のつきあたりにドアがあり、走って閉めないと犬に噛みつかれてしまいます。私は手にロープを持っていて犬の口にそれをいれて噛まれるのを逃れました。」

アパシンスキーは持久力をつけるため、選手を湖の真ん中に連れていき、海岸まで5~6マイル(約10キロ)泳がせたりもしました。

ジロフ
「泳ぐのに3~4時間かかりました。あるボクサーが私のようなチャンピオンになりたいと言うとトレーナーはOKと言って湖に連れていき泳げと言いました。一生懸命泳いでもそのうち溺れるようになり、疲れたと言ってもワシリーのような王者になりたければ泳げとトレーナーは言いました。私は彼が溺れないように一緒に泳がねばなりませんでした。海岸につくと彼はもうこんな厳しいトレーニングはしないと言って帰ってしまい、それきり戻りませんでした。」

アトランタ五輪では世界選手権で負けていたアントニオ・ターバーやその他宿敵を倒し金メダルを獲得しました。

ジロフ
「自分も含めてみんなサウスポーでした。サウスポー対策が生きました。」

バル・ベイカートロフィーも受賞しました。

ジロフ
「ケーキのような形をした王冠でした。毎日7~8時間のトレーニングを10年間続けました。毎日、寝て、食べて、電車で学校に行き、ボクシングに人生を捧げていました。私の夢は私個人だけのものではなかったのです。毎日が辛かったですが、未来のためだとおもい続けてきました。」

ジロフは最終的には207勝10敗というアマチュアキャリアを残しました。

ジロフ
「オリンピックが終わり、アメリカに渡ってプロの世界王者になると決めましたが難しい決断でした。しかし私の人生であり、王者にならねばなりませんでした。」

トップランクと契約しオスカー・デラホーヤVSミゲルアンヘル・ゴンザレスの前座でデビューしました。

2年半のプロキャリアで20戦全勝としたジロフはアーサー・ウィリアムズ相手に世界挑戦しました。7ラウンドにボディでKOしジロフはカザフスタン初の世界王者になりました。

ジロフ
「王者は爪のように丈夫でした。強くていい王者でした。パンチも強かったがまともに食いませんでした。ボディでジワジワ彼を痛めつけました。コーチの戦略に従った結果です。」

その後強打とプレスのジロフは4年間で6度の王座を防衛しました。ホルヘ・カストロ戦後14カ月のブランクを作り、その後に対戦したのが、キャリアの分岐点となる元2階級王者のジェームズ・トニーでした。2003年4月のことです。

ジロフはその試合で判定負けしましたが、勝利を確信していました。実際HBOの解説者の採点は113-113でした。

ジロフ
「みな私の勝ちだと言いました。確かに一回ダウンしましたが、パンチングマシーンのように彼を殴り続けました。勝利を信じていましたがジャッジは違いました。その時、これはビジネスであると悟り、階級を上げることにしました。」

ジロフはヘビー級に転向する前に2勝しました。

無敗のヘビー級、ジョー・メシと試合し3者1ポイントという判定負けをしますが、後半は3度メシをダウンさせた。メシは硬膜下血腫を患い、無敗のまま引退した。(36勝29KO)

その後ジロフは2度のヘビー級王者マイケル・モーラーと戦い、序盤をリードするも9回に逆転KO負けをした。この敗北が彼にとってはじめてのKO負けとなった。

その後もヘビー級で戦い続けたがクルーザー級時代の栄光は取り戻せなかった。
2009年に引退したジロフの最終戦績は38勝32KO3敗1分

ジロフ
「世界中を駆け巡り、相手を打ち負かして稼ぎました。」

44歳となった元王者は結婚し娘と幸せに暮らしています。アリゾナ州のスコッツディールに暮らし地元のボクシングクラブのコーチをしています。」

ジロフに10個の質問をしてみました。

ベストジャブ
デール・ブラウン
「速くてピンポイントで、どうしようか考えさせられました。10ラウンドでようやくKOできました。よく動くいいボクサーでした。リッチ・ラモンタグンも素晴らしいジャバーでした。」

ベストディフェンス
ジェームズ・トニー
「ディフェンスが完璧でした。インサイドに入るのが困難でした。」

スピード
リッチ・ラモンタグン
「とてもよく動く選手で私がはじめてKOを逃した相手です。」

タフネス
ジェームズ・トニー
「打たれ強かったです。ホルヘ・カストロもタフでアグレッシブでした。」

スマート
ジェームズ・トニー
「たぶんトニーだろう。明確なゲームプランを持っていました。よく動くしショルダーロールをもっていました。」

ストロング
マイケル・モーラー
「トニーもモーラーも私より大きかったが、モーラーは強かった。そんなにたくさんパンチを打たないしスローだったが強力でした。30ポンドは私より重かっただろう。アウトボクシングを心掛けたが捕まってしまいました。私の後頭部を殴ってKO勝ちしました。」

ベストパンチ
ジェームズ・トニー
「モーラーにはKOされたが私はまだ戦えました。レフリーが止めただけです。トニーをあげます。パンチはあったがそれほどでもなくダウンは私が疲れていたからです。最後まで戦いました。でもたぶんトニーでしょう。」

ベストスキル
ジェームズ・トニー
「よく動き捕まえるのが難しかった。いいパンチもあるしなめらかでスマートでした。」

総合
ジェームズ・トニー
「とてもスキルフルな相手でした。彼はリングで何が起きるかよくわかっており、動き方、パンチの打ち方全て知っている職人でした。

五輪金メダルでプロでも世界王者、大成功のボクシングキャリアですが地味といえたかもしれません。それほど当時のクルーザー級は不人気階級でした。今ほどには情報もなく、やばい、ゴツイパンチャーが出てきたのう、という薄い印象でしたが、ジロフだけは今のWBSSでも優勝候補の一角、今のロシア圏のクルーザー級選手に連なる先駆者、剛腕系でした。

話の節々に性格のよさとまじめさ、負けず嫌いな面が現れているような気がしました。

一番感動したのはこの言葉です。

“Every day I would come home sleep, eat, train and go to school. I dedicate myself totally to boxing. I had my goal and my life wasn’t personal at all: gym, school, sleep and eat. Not too much pleasure; I thought I’d make pleasure later.”

幸せは今じゃなくいつか掴むもの

みたいな意味だとおもいます。

ジェームズ・トニーにまさかの敗北で全ての歯車が狂ったボクシング人生でしたが、ブランクさえなければ勝っていただろうな。タイガー、ジロフを知る人ならばこの人が歴代最強のクルーザー級かもしれません。

右端、まさかのロン毛でスマートな今のジロフさんでした。

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原始的で単純明快なスポーツです。生涯一度の敗北、無敗で引退したボクサーもいます。負けても次頑張りますというスポーツとは違う残酷さ、無常さが好きです。

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