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怪物前夜の名王者/レーロホノロ・レドワバ

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代役のアップセット、ジョシュアに勝ったアンディ・ルイスの話題が熱いですが、もっと強烈なのがありました。Lehlohonolo Ledwaba、どう読むのかわからないので、日本ではリーロ・レジャバなんて言われていましたが、ジョー小泉氏が絶賛しており、特に何かに秀でたファイターではなかったがバランスがよく柔軟でしなやかで伸びしろ豊かで負けにくい要素を持つ天才肌でありました。アメリカデビュー、代役で出場したパッキャオが何者かもしらずに胸を貸すまでは・・・

レーロホノロ・レドワバは1990年代後半から2000年代初頭にかけて世界でベストのジュニアフェザー級の一人と認められていた。南アフリカのパンチャーは5度の防衛に成功した。

1971年南アフリカのソウェトのミードウランドにある祖父母の家で生まれたレドワバの生活は困難を極めていた。

レドワバ
「とても困難な状況から来ました。母子家庭で育ちました。父は母と結婚しなかった。母親一人の稼ぎでは生活は大変でした。」

レドワバの叔父がアマチュアボクサーだった関係で8歳で初めてボクシングを紹介された。

レドワバ
「自分の生活を向上させるために一生懸命練習しました。兄弟、2人の姉妹、母を助けたいとおもっていました。いつの日か母に家を買ってあげたいとおもっていました。」

南アフリカは国としてトップアマチュアだけに手を差し伸べた。レドワバは79勝3敗という優秀なアマチュア記録を持っていたが、1987年からほんの数年間で築いた実績だ。全国ジュニアタイトルや別の国別タイトルを獲得していった。

レドワバ
「アパルトヘイトの影響で国際的な舞台で競争するチャンスはまだ閉じられていました。」

1990年、レドワバはプロに転向しトランスヴァールと南アフリカの全国タイトルを獲得、世界の舞台に進出するための地域ベルトも獲得していった。

1998年、IBFタイトルエリミネーターでフィリピンのアーネル・バロティッロと対戦、ユナニマスで挑戦権を獲得。同時期に仲間のブヤニ・ブングがナシーム・ハメドと対戦するため王座を返上したのを受けて1995年5月、ジョン・マイケル・ジョンソンと決定戦となりユナニマス判定で世界王者となった。

レドワバ
「素晴らしい瞬間でした。やっと信頼できる世界タイトルを獲得した。この瞬間で私の人生は変わりました。ファイトマネーもいままでよりずっと良くなりました。」

その後、レドワバは英国や米国のアンダーカードで防衛を続け評価を高めていった。

2001年、ラスベガス、ハビエル・カスティリョホVSオスカー・デラホーヤの前座でレドワバのお披露目が予定されていたが対戦相手が変更になった。

当初はエンリケ・サンチェスと対戦する予定だったが2週間前に欠場が決まり急遽代役としてパッキャオがリングに上がった。6回に2度ダウンを奪われレフェリーが試合を止めた。6回59秒TKO負けを喫し6度目の防衛に失敗し王座から陥落した。パッキャオはこの勝利をきっかけにアメリカでのスターへの階段を駈け上がった。レドワバの敗北によりウェルカム・ニシタから始まり絶対的なブングと強打のレドワバが彩った南アフリカのスーパーバンタム級ビッグ3時代の終止符が打たれた。

レドワバ
「オーソドックスとの試合予定だったが、怪我をして代役になった。マニーがサウスポーである事を知らなかった。サウスポー相手であれば準備が必要でした。私は相手をよく研究し考えて戦うボクサーです。最善を尽くしたがマニーには全く通用しなかった。私はベタ足だがマニーはつま先立ちでよく動き当てるのが難しかった。彼を捕らえることができなかった。跳ねるようにパンチを放ってきてしかも強烈なパワーだった。

当時パッキャオはアメリカでは知られていませんでした。私は当時キャリアのピークにおり、ジュニアフェザー級最強と言われていました。マニーの勝利はちょっとしたアップセットだったので、彼を有名にさせる役目になってしまいました。」

バーマン(レドワバのプロモーター)
「パッキャオはまだ若く、甘くみていた。パッキャオの実力があらかじめわかっていたなら、代役は避けていたでしょう。パッキャオは世界レベルでは無名だった。この試合でレドワバは全てのモチベーションを失ってしまいました。

レドワバは素晴らしいファイターでした。ウェルカム・ニシタ、ブヤニ・ブングに並ぶ南アフリカを代表するエリートでした。レドワバはオールラウンダーだった。パンチ力もありカリスマ性を持った万能型だった。」

失意のレドワバは故郷に戻り、同胞であるブヤニ・ブングに勝利したりその後5年間控えめに戦ったが、世界レベルには決して戻ることなく2006年の秋に引退した。

レドワバ
「一生懸命練習して、最高レベルに到達することが出来ました。母に家を買うのが目標でした。今、家に電話できる場所がある、それが嬉しいです。」

レドワバは結婚し2人の子供がいる。ヨハネスブルクに住み、トレーナー兼マネージャーとしてボクシングに関わっている。ディンガン・トベラ、ジャン・バーグマンと共にTLBプロモーションという会社も設立した。

ライバルについて

ベストジャブ エドゥアルド・アルバレス

ベストディフェンス エドゥアルド・アルバレス

彼にパンチを当てるには自分を売るような賭けが必要でした。彼に打たせ、それから彼を殴る。賭けはうまくいきました。

ハンドスピード マニー・パッキャオ

エルネスト・グレイもとても速かったけどマニーが最速だ。永遠にずっと速く忙しかった。多くのパンチを様々なアングルから打ってきた。サウスポーとして一方的でした。

フットワーク エルネスト・グレイ

ブヤニ・ブングに負けましたが物議を呼ぶものでした。私はライオンの檻に入れられたようなものでした。ブング戦の内容がチラついて非常にナーバスになっていました。バランスのいいフットワーカーだった。

ベストチン ジョン・マイケル・ジョンソン

メキシコのカルロス・コントラレスもタフだった。何度殴ってもそこに立っていた。全てを当てても倒れなかった。

スマート マニー・パッキャオ

彼には私は相性のいい相手でした。ベタ足の私に対して彼はつま先立ちで飛び掛かってくるから彼のパンチだけ当たり私は当たらない。2回以降はもう生き残るためだけに戦っていたようなものでした。

屈強 マニー・パッキャオ

彼が最強で最もハードパンチャーだった。

ベストパンチャー マニー・パッキャオ

彼に殴られるのは他の相手とは異質でした。私は生き残るためだけに戦っていた。深く傷ついたとおもった。私が出来ることは引退することだった。

ベストスキル マニー・パッキャオ

エルネスト・グレイもエドゥアルド・アルバレスもいいスキルを持っていた。ディフェンススキル、カウンターが優れていた。ブヤニ・ブングも総合力が高かった。けれどパワーに関しては他と比較できない。パワーを加味するとエルネスト・グレイとマニー・パッキャオが残り、最後はパッキャオになります。

総合 マニー・パッキャオ

たとえ当時は無名でも、私が戦ったパッキャオがピークだったとおもう。パンチは強烈で正確で躍動感がすごく動きまくる。様々な角度からパンチを当ててくる。動きもすごくて、こっちにいるとおもえばあっちにいる。お手上げだ。

地味に強い、しなやかで繊細で減点要素が少ない、伸びしろばかりある、そんなファイターでも怪物に散るのは歴史が証明してきた。パッキャオの快進撃はメキシコのライバル決戦ではなくこのレドワバ戦から始まったのでした。パッキャオはメキシカンキラーだっただけでなくウェルカム・ニシタから始まり絶対的なブングと強打のレドワバが彩った南アフリカのスーパーバンタム級ビッグ3時代を終わらせた。

いくら印象的な勝ち方をしているとはいえ、パッキャオは元々フライ級でした。それが一気に2階級上げて上質堅牢な安定王者に挑むとしたら不利、レドワバ陣営が甘く見るのも無理はない。この一戦はどこか、井上尚弥VSオマル・ナルバエスと同じ衝撃前夜の歴史のヒトコマであった。

そして、どんなに境遇、立場の悪い存在でも、結果を出していけば、結果だけでなくその試合内容が衝撃的であるならば本場は認めてくれるのだ。そのくらい、勝ち方も圧倒的で空いた口が塞がらない試合でした。

当時のパッキャオは23歳か・・・

井上尚弥はいまここらへん、いやもうちょっと世間に認められてスターへの階段を昇る途中、ドネア戦の決勝はさながら2003年のパッキャオVSマルコ・アントニオ・バレラ戦くらいの道程なのかもしれない。

ここでもパッキャオは不利予想だった。
その後約20年経ってもウェルター級で世界王者を張っている。異次元すぎる。

レーロホノロ・レドワバはこの時期南アフリカに揃った世界王者の中でも、素質という点ではナンバーワンだったとおもいます。

レドワバのハイライトがないのは悲しい。

レドワバは白いトランクスだったが試合後はピンクに染まった。

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原始的で単純明快なスポーツです。生涯一度の敗北、無敗で引退したボクサーもいます。負けても次頑張りますというスポーツとは違う残酷さ、無常さが好きです。

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