階級別 スーパーバンタム レジェンド

ヨハネ3:16/(キング)ケネディ・マッキニー

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最高の才能が必ずしもプロで大成功するわけではない。数多くのボクサーを指導し、今はノニト・ドネアを教えるケニー・アダムスをして最高傑作といわしめた男はその才能の片りんを随所にみせながら、ビッグファイトには無縁のままグローブを吊るした。

ケネディ・マッキニーはプロボクシングで2度のジュニアフェザー級王者に輝いた素晴らしい王者だが、オリンピックの金メダリストとして、人々の高い期待に完璧に応えてきたとは言えないかもしれない。

マッキニーは11年生だった時に米軍に参加する事を決めた。ミシシッピ州生まれの男は軍のレクレーションルームで2人のボクサーが表紙になった雑誌を見てボクシングに興味を抱いた。そして当時アメリカ軍のボクシングチームのヘッドコーチだったケニー・アダムスにコンタクトした。

マッキニーには才能があったが、規律に欠けていた。それをアダムスが徹底的に鍛え直した。

マッキニー
「ケニーは適切なトレーニングやコンディショニングなど様々な方法を教えてくれました。ボクシングは得意でしたが、さらに向上させてくれました。下半身を効果的に使って右を強く打つ方法なども学びました。何よりも私にボクシングを通じて生きる規律をもたらしてくれました。」

マッキニーはアメリカのオリンピックトライアル決勝で4年連続負けていたが、ソウルオリンピックトライアルでようやく勝ち抜き、米国を代表した。

アメリカ五輪代表、テネシー州の居住者には0316というナンバーが与えられた。これが彼の混沌とした人生を運命づけた。

マッキニー
「ヨハネ3:16、神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じるものがひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(「ヨハネによる福音書」3章16節にある言葉)この数字に気が付いた時、金メダルは俺のものだと確信した。神が常に俺の傍らにいて支えてくれる。疑う余地は何もなくなった。」

その確信通り、マッキニーは1988年のソウルオリンピックで金メダリストに輝いた。(アメリカはその他アンドリュー・メイナード、 レイ・マーサーが金)プロに転向したマッキニーはケニー・アダムスとそのまま組んで3年間で19勝12KOを記録。世界挑戦を目前にした。

マッキニー
「若気の至りもあって早く世界戦がしたかったけど、ボブ・アラムがなかなかチャンスをくれませんでした。アラムにアピールしたが、彼の返事はもう一人戦ってくれでした。言われた通り、ポール・バンキをノックアウトしたがボブ・アラムはまだチャンスを作ってくれなかった。」

マッキニーは当時トップランクの副社長だったアクバル・ムハンマドから別ルートで世界挑戦できるという話を聞き、ボブ・アラムに契約の解消を求めた。

マッキニー
「後から知ったんだけどアクバルは何か悪さをしてトップランクを解雇されたようだった。けれどおかげで世界挑戦できた。」

マッキニーは遠くイタリアに遠征しサルデーニャ州トルトリで世界初挑戦。IBF世界スーパーバンタム級王者で32戦全勝のウェルカム・ニシタと対戦。試合前の下馬評は圧倒的にニシタ優位と伝えられた。開始から打撃戦になりニシタのペースで折り返した。

10回終了時のスコアは0-3(95-96、94-96、94-97)最大3点差と1・2点差の僅差でニシタがやや優勢になった。勝つにはKOしか無くなったマッキニーは11回勝負と前に出て打ち合ったが真っ先にニシタの左フックを多用されてスタンディングダウンを奪われたが、場内のケネディコールの大合唱に応えるようにその後ニシタの右ロングフックの打ち終わりに右ショートフックでニシタから力を失ったようにダウンを奪った。ニシタに初めてのカウントアウトになり試合終了。11回2分48秒KO勝ちで無敗対決を大逆転で制し王座獲得に成功した。この試合は1992年度リングマガジン ノックアウト・オブ・ザ・イヤーに選ばれマッキニーは世界王座になったのと同時に大きな賞を受賞した。

マッキニー
「俺が犯したミスはタイトルを獲得した事だった。ボブ・アラムに還元すべきだったがそれをしなかった。ラスベガスからテネシー州に戻ったのは間違いだった。」

マッキニーの統治は18か月、5度の防衛に成功。6度目の防衛戦で南アフリカハウテン州カルーセル・カジノでブヤニ・ブングと対戦。試合前の前評判はマッキニーの優位だったがブングのスピードに追い付けず手数で押し切られ12回3-0(2者が112-116、111-117)の判定負けを喫し6度目の防衛に失敗し王座から陥落。この試合は1994年度リングマガジン アップセット・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。

復帰戦後カリフォルニア州イングルウッドのグレート・ウェスタン・フォーラムで39戦全勝のWBO世界スーパーバンタム級王者マルコ・アントニオ・バレラと対戦。試合は8回に2度ダウンを奪われると9回にダウンを追加された。11回にはバレラからダウンを奪って反撃するも反撃は長く続かず12回に2度ダウンを奪われると、そのままレフェリーストップがかかり試合終了。12回2分5秒TKO負けを喫しIBFに続く王座獲得に失敗した。

ブヤニ・ブングと3年振りにリマッチを南アフリカハウテン州カルーセル・カジノで行った。試合は前回と違い前半に攻め込んだがその後はブングの手数の多さでまたしても押し切られ12回1-2(113-115、113-117、115-113)の僅差判定負けを喫し3年振りの王座返り咲きに失敗。

1997年12月19日、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンでアマチュア時代のライバルでもあるWBO世界スーパーバンタム級王者ジュニア・ジョーンズと対戦。3回にダウンを奪われジョーンズが優位に進め3回終了時のスコアは0-3(27-29、2者が26-30)とジョーンズが優勢だったが、4回にマッキニーがダウンを奪い返しそのままレフェリーストップ。4回2分41秒逆転TKO勝ちを収めIBFに続く王座獲得に成功。

マッキニーにとってはこの試合の勝利が最高の想い出となった。

マッキニー
「俺はバレラに負けた。ジョーンズはバレラを2度倒した。だからジョーンズは俺に対戦オファーをしてきたんだ。痛快だった。」

しかしマッキニーはその勝利をもっと大きなものに変えることができなかった。

マッキニー
「ナジーム・ハメドと戦いたかった。同じカードで彼はケビン・ケリーを倒し、俺はジュニア・ジョーンズを倒した。」

しかし、対戦が実現することなくマッキニーはおよそ1年のブランクを作り、2階級制覇を目指した。日本のリングでルイシト小泉のリングネームで活躍したWBC世界フェザー級王者ルイシト・エスピノサに挑戦し、2回47秒TKO負けを喫し2階級制覇に失敗。

これがマッキニーの最後の光となった。

その後数戦するも精彩を欠き、36勝19KO6敗という記録を残して引退した。

マッキニーのトレーナー、ケニー・アダムスは彼の才能について熱く語っている。

アダムス
「ケネディ・マッキニー、彼が私が指導したファイターでは一番です。最高のオールラウンダーだった。全てを持っていた。ディフェンスもオフェンスも、強力なジャブも右の破壊力も、フック、ボディ、滑らかさ、全てを備えていた。」

マッキニーには薬物依存の前科があった。

マッキニー
「それが最大の過ちであり後悔です。ノックアウトで勝つと、何か月もドラッグに浸っていた。そのせいで身体が錆び付き、キャリアを無駄にしてしまった。クスリになど手を出さなければよかった。もっとタイトルを防衛したかった。10回とか15回とか・・・俺はたった5回しか防衛していない。それが悔いだ。」

現在53歳になるマッキニーはテネシー州メンフィスに住んでいる。2度の結婚で2人の息子がいる。ボクシングで経済的には成功し人生は順調だ。

マッキニー
「俺が今しているのは子供の世話だけです。子供に穏やかな時間を与えたい。」

マッキニーはいつの日かボクシング殿堂入りすることを望んでいるが、規定には「薬物から10年間クリーンであること」とされている。

ライバルについて

ベストジャブ ルイシト・エスピノサ

すごい!最高のジャブだった。俺も相手よりいいジャブを持っていたけどルイシトは背が高くて、俺よりも長く強いジャブだった。

ベストディフェンス ブヤニ・ブング

南アフリカのキッズを挙げなければならないだろう。ダッキングで上体が低くて当てるのが大変だった。再戦では通用しないぞとおもっていたが、また同じやり方でやられてしまった。コーチの指示を聞かないで自分勝手にやった俺が悪い。俺はブングに負けたとはおもわない。自分自身に負けたんだ。

ベストチン シュガー・ベイビー・ロハス

USBAタイトルでやったロハス。強く殴ったがタフだった。バレラも頑丈だった。

ハンドスピード ウェルカム・ニシタ

想像してたよりも速かった。

フットワーク ヘクター・アセロ・サンチェス

難しいけど彼を挙げよう。最高のフットワークで誰よりも上手く動いた。

スマート ブヤニ・ブング

スマートな奴はいなかった。けれどブングは体勢が低くて俺に対する戦略としては最も賢いといえた。俺に対しては最も効果的で滑らかな動きだった。

屈強 リチャード・デュラン

初防衛戦で戦ったリチャード・デュランという男だ。彼とはアマチュアで対戦したことがあって俺は負けている。このキッズは強かった。ジャブ、ジャブ、右、捕まるのが怖くて、十分攻撃が出来なかった。

ベストパンチャー マルコ・アントニオ・バレラ

バレラだろう。パンチが重くて俺は5回ダウンした。痛くないし傷つきもしなかったから身体は大丈夫だったけど重く、押すようなパンチだった。

ベストスキル ウェルカム・ニシタ

一番才能があってオールラウンダーの天才だった。いい左フックももっていた。でも試合、再戦でもうそれを学習したから勝てたんだ。でも、最も優れたいいファイターだったとおもう。

総合 ウェルカム・ニシタ

一人に選ぶのは難しいけど、彼が俺のキャリアでは最も優れた偉大な王者だった。映像でみるより速くてパンチを当てるのも難しかった。

いつか書こうとおもうが、多くのボクサーをみてきたケニー・アダムスの最高傑作がマッキニーだ。読めばその才能がいかにすごかったかが実績以上に伝わってくる。

しかし、その才能のまま順調にいかないのがプロの世界。最近では五輪金メダルという勲章は飾りでしかなく、とりあえず五輪代表レベルであればプロではどっこいどっこい、誰がプロ向きで献身的に努力するか、成長するかが重要だと考えている。

マッキニーといえばソウル五輪、日本に松島という強い選手がいたが、2回戦か3回戦で後の世界王者、ホルヘ・エリセール・フリオに負けた試合を覚えている。これに勝てば銅メダルという試合、フリオは強かった。その時の金メダルがマッキニーだった。

タイトルを獲得したのが過ちだった。ボブ・アラムをきったのが間違いだったというのは奥が深い話だが、その後のマッチメイクやファイトマネーで苦労することになったという事だろうか

ボクシングビジネスは残酷だ。
名誉よりお金のためならプロモーターをないがしろには出来ない。

ケネディ・マッキニーを振返ると

オリンピック金メダリストという完璧な肩書き
どんなビッグネームにも勝ってしまう可能性、それだけの潜在能力はあるが、安定感はない。

ボブ・アラムとの縁をきったことで世界王者にはなれたが、イタリアや南アフリカなど、本来行かなくていいアウェーに出向き、そこでおもわぬ南アの実力者(ニシタやブング)に出会い、キャリアを狂わせてしまった

という感じだろうか。

ハメドもバレラもジョーンズも、イタリアや南アフリカに行って戦う必然性などなかった。本場で大人気だった。

マッキニーがいたからこそ南アの選手、特にブングにはチャンスが切り開かれたともいえるのでそういう意味では数奇なプロキャリアで、もっと偉大な王者になれていたかもしれない。

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原始的で単純明快なスポーツです。生涯一度の敗北、無敗で引退したボクサーもいます。負けても次頑張りますというスポーツとは違う残酷さ、無常さが好きです。

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