それを知らずに、特に望むこともなく、サリム・メジクンヌはマヤル・モンシプールをフランス人にすることに大いなる貢献をした。2002年1月18日の夜、ポイチエの街で、小さなイラン人がスーパーバンタム級で暴れ回った。
マヤル・モンシプール(Mahyar Monshipour、1975年3月21日 - )は、フランスの男性プロボクサー。イラン・テヘラン出身。元WBA世界スーパーバンタム級王者。
モンシプール
「フランス人になるために、非常に大事な、象徴的な戦いでした。それは認識についてです。今日、私は100%フランス人だとみなされていますが、同時に100%イラン人である事も忘れてはいけません。私は二重国籍です。両国の言葉を認識し構造化できます。」フランス文化を受け入れるというマヤル・モンシプールの激しい意志を理解するには、数年前に時を巻き戻してペルシャ人の精神を吸収しなければなるまい。
モンシプール
「1986年、私は11歳でした。イラン・イラク戦争の渦中でした。非常に困難な紛争で、多くの若者がこの地から去り戻ってきませんでした。当時私はカーマンという街に住んでいて、父はフランスのポイチエに住んでいた叔母の元に私を送ることで守ってくれました。実を言うと父は2つのビザを申請していました。1つはアメリカ、もうひとつがフランスでした。8月16日に飛行機に乗りましたが、私は数日前までどこに行くのかわかっていませんでした。」
運命は時に自分で制御できない。マヤールには官僚主義はなく、フランスは文学、偉大な作家を少し知っているだけだった。
モンシプール
「私にとってフランスについて知っている事は、モンテ・クリスト伯、アレクサンドル・デュマだけでした。フランス人は襟の付いたタキシードを着ているとおもっていました。全ては見知らぬ世界ですが、私はイラン人としてホスト国を尊重しなければなりませんから素早く馴染む必要がありました。不満は何もありません。学校に通い99%馴染むことができました。言語、様々な科目、そしてスポーツを通じて、フランスに溶け込みました。」1996年10月26日、フランスでプロデビューし、6回TKO勝ち。
2002年1月18日、フランススーパーバンタム級王座を獲得。
2002年7月13日、EBU欧米スーパーバンタム級王座を獲得。同王座は2度の防衛に成功。
2003年7月4日、27戦目で世界王座初挑戦。同国人のWBA世界スーパーバンタム級王者サリム・メジクンヌに挑戦し、12回KO勝ちで世界王座を獲得。
https://www.youtube.com/watch?v=fwkaSHrPTg8
ハイロ・タグリアフェルロ、サリム・メジクンヌ、ヨーダムロン・シンワンチャー、仲里繁、フリオ・サラテを相手に5度の防衛に成功。
https://www.youtube.com/watch?v=Qn9q66TCsDk
2006年3月18日、6度目の防衛戦でソムサック・シンチャチャワンと対戦し、10回TKO負けで王座から陥落した。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された。
王座陥落後、2年8か月のブランクを作るも、2008年12月1日に復帰。
2009年3月13日、元IBF世界スーパーフライ級王者フェリックス・マチャドと対戦し、5回終了時TKO勝ち。
2009年7月4日、1階級下のWBA世界バンタム級王者アンセルモ・モレノに挑戦し、12回判定負けで2階級制覇ならず。
通算戦績31勝21KO4敗2分
モンシプールの言葉には後悔も不満もない。むしろ彼がリングで求めた出世への願望、視野をフランスで手に入れた。
モンシプール
「もし不幸だと感じたら、イランに帰るチケットを取り戻していたでしょう。時々、モノを投げられたり、拒否反応を示す人々もいましたが、私たちは同じ人間です。ひどい差別や敵対的な反応を受けたことはありません。そのような反応は私の起源を思い知らせるきっかけになります。私は前向きに受け止めます。私の娘はフランス人ですが、イランの父親とモロッコの母親という3重の文化と共に生きています。」モンシプール
「フランスの人々は人種差別主義者ではありません。フランスに来る人は誰でも努力をすれば自分の居場所を見つけることができるとおもいます。チェチェン人、アルメニア人、イラン人そして今はシリア人の問題があります。仕事、住居、文化的な様々な課題があります。フランスがもっと移民に対し上手く付き合っていけるかはわかりませんが、わたしはそれがこの国の歓迎の伝統であり、きっとうまくいくと信じています。」
ボクシングキャリアについての詳細は見つけられませんでしたが、彼が、イランのテヘラン出身という事を残したかった。
マヤル・モンシプールVS仲里繁
は男と男の根性比べ、炎のファイトだった。
仲里の勇敢なファイトに、敵地フランスの観客からも、敗者仲里に大きな声援が送られた。
佐藤修など、何人かの日本人が交差する時代の王者だったが、日本人にとって鬼門のテクニシャンやフットワーカーも、モンシプールはケンカファイトでなぎ倒してしまう凄みがあった。
それは日本人がやりたいファイトであり、逞しく、羨ましい戦いぶりだった。