階級別 スーパーフライ レジェンド

孤狼の血/渡辺二郎

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過去にスーパーフライ級を統一した王者は渡辺二郎以外に一人もいない。犯罪さえなければ、最高に艶っぽい、ボクサーらしさ溢れるクールで絵になる本格的な世界王者だった。

偉大な王者を多数輩出してきたスーパーフライ級を初めて統一した男は、引退後、キャリアに致命的な汚点を残した。日本拳法を極めた男は最終的にヤクザになった。渡辺二郎はスーパーフライ級の頂点に長く君臨した、この階級を代表する名王者の一人だ。

渡辺二郎はストリートファイターだった。ケンカの技術を空手に取り入れて、日本拳法では6フィート200ポンドの相手に立ち向かい世界選手権で4位になった。階級別のボクシングでパンチだけに集中すれば無敵だろうとボクシングに転身した。

スタイリッシュなスナイパー型のボクサーである渡辺は、時に無気力で、自分で攻めるよりも相手が攻めてくる瞬間を待って狙い打つような受け身のファイトをしたが、ひとたび相手を傷つけると狂気のファイティングスピリットを発揮した。彼は殺気に満ちたフィニッシャーだった。

スーパーフライ級に移行する前、渡辺は日本の軽量級で最高のファイターであることを証明していた。後のWBC世界フライ級王者・小林光二を全日本新人王決定戦で1RKO。

11戦目にして世界初挑戦、敵地でWBCスーパーフライ級王者金喆鎬(韓国)に挑むが、15回判定負けを喫した。

1982年4月8日、2度目の世界挑戦。WBA世界スーパーフライ級王者ラファエル・ペドロサ(パナマ)に挑戦し、15回判定勝ちで世界王座獲得。

同王座は、グスタボ・バリャス、大熊正二、ルイス・イバネス、仙台ラミレス、権順天、セルソ・チャベス相手に6度の防衛に成功した。

1984年7月5日、WBC同階級王者のパヤオ・プーンタラット(タイ)との統一戦に臨む予定であったが、WBAはカオサイ・ギャラクシーの指名挑戦を義務づけ、統一戦の開催を認めなかった。(結局剥奪)

パヤオはイギリスの有名なトレーナー、チャールズ・アトキンソンによってトレーニングされた王者で、モントリオールオリンピックでタイ人初の銅メダルを獲得していた。その技術をプロに持ち込み、ラファエル・オロノをノンタイトルでアウトボックスし、強敵のグディ・エスパダスに勝って防衛に成功していた。

この幻の統一戦に渡辺は12回判定勝ちし、WBC世界スーパーフライ級王座を獲得。この世界戦に関しては、WBC王者のパヤオに渡辺が挑戦するという変則的な形で行われ、もしパヤオが勝利していた場合、パヤオは統一王者ではなくWBC王座のみの防衛となっていた(※当時WBAは15ラウンド制でWBCが12ラウンド制の世界戦のルールの違いが一番のネックで、そうなったとされる)。

WBAと帝拳との交渉でリングに上がった瞬間に即剥奪はされず、試合終了後に剥奪という処分がなされているためほんのわずかではあるが、WBA・WBCの統一王座という記録は残ることになる。

この試合、判定は2対1で渡辺となり後半に反撃した逆転勝ちで微妙な試合だった。パヤオ側は判定に不満として提訴。渡辺も「ボクシングとしては相手が一枚上だった」と回顧している。

防衛戦でパヤオと再戦してTKO勝ち、因縁ある両者の対決に決着をつけるかたちとなった。 前記防衛戦を含め、WBC王者として4度の防衛に成功する。

1985年12月13日、韓国で開催された4度目の防衛戦で、地元の尹石煥を相手に6度のダウンを奪い5回KO勝ち。日本人世界王者として初の日本国外での世界王座防衛を果たした。

1986年3月30日、伊丹市スポーツセンターでの5度目の防衛戦でヒルベルト・ローマン(メキシコ)に12回判定負けを喫し、世界王座陥落。

1991年11月8日、引退を発表。生涯戦績は28戦26勝(18KO)2敗(世界戦14戦12勝(8KO)2敗)。

ジョー小泉
「パヤオとの試合はWBAと交渉して渡辺がリングに入った直後にベルトが剥奪されました。私はカットマンで交渉権はなかった。渡辺二郎はとても頭がいいサウスポーのボクサーパンチャーでした。ラファエル・ペドラサからベルトを奪った時は典型的なフットワーカーでしたが、キャリアと共にスタイルを変え、シャープなカウンターパンチャーになりました。タイトなガードと速いフットワーク、要するに、渡辺二郎はオールラウンドなファイターでした。」

渡辺二郎
「ボクサーとしての才能がないと気づいたら、やるべきではない。ボクシングの世界は弱い者ほど辛く厳しい」

引退後

引退後も渡辺は実業家、ボクシング解説者、講演家、テレビタレントなど多方面で活躍していた。
1995年、金融機関からの融資返済に絡む恐喝未遂事件で逮捕され、起訴猶予処分で釈放された。
1999年、殺人事件で使用された自動小銃の売買に絡み銃刀法違反で逮捕・起訴され、公判では島田紳助が情状証人として出廷したが実刑判決を受け服役、2004年に出所した。

2007年6月4日、大阪府警岸和田署に知人の暴行事件を隠匿するために被害者に被害届の提出をさせないよう迫ったとして証人等威迫罪の疑いで逮捕されたが、一週間後に処分保留で釈放された。日本ボクシングコミッションは、渡辺を今後一切歴代の世界王者に列しない方針でライセンスの無期限停止処分とし、ボクシング界から事実上の永久追放処分となった。

2007年6月30日には羽賀研二未公開株詐欺事件の疑いで逮捕・起訴され、大阪地裁で無罪判決を受けるが2011年に大阪高裁で懲役2年の逆転有罪判決を受け上告、2013年4月1日に上告が棄却され懲役2年の2審判決が確定した。この事件では両者に有利な証言をした弁護側証人が偽証罪で起訴されている。この際、渡辺が指定暴力団山口組系極心連合会関係者であることが報じられた。

2011年、島田紳助引退騒動において、芸能界引退の原因となったメールの相手は渡辺であったと報道されている。

エピソード

ファイティング原田が十数kgの減量をしたと語っているのに対し、渡辺は「それだけ体重が増えているのは普段の節制が足りないのだから、自慢ではなくて恥じるべき」と意見したことがある。

渡辺の現役時代のファイティングスタイルは、「ファイティングコンピューター」と言われるほどクレバーな試合運びであった。だがそれ故に試合の盛り上がりに欠け、大きな見せ場の少ない試合も少なくなかった。

ローマン戦の敗北後、渡辺は身体的にも問題なく復帰を目指してトレーニングを続行していたが、当時練習生であった同ジムの辰吉丈一郎とのスパーリングで辰吉の才能とセンスに驚き、それが引退のきっかけになった。

現役時は一切喫煙しなかったが、引退か現役続行かを迷っている時に、ふと夜道で自動販売機を見つけて煙草を吸い、「ああ、これでもう終わったんだなあ」とつぶやき、一筋の涙が頬を伝ったと後に語っている。

まだ階級の歴史が浅く、対戦相手の質もキャリアも浅い印象だが、明らかに異端、異能の才能だった。もっと強く、巧く、狡猾な、軽量級のバーナード・ホプキンスになれるような格闘センスをもっていた。日本に王者が多く誕生することになる階級の先駆けにしてカオサイに勝てるとしたら、この男しかいなかった。

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原始的で単純明快なスポーツです。生涯一度の敗北、無敗で引退したボクサーもいます。負けても次頑張りますというスポーツとは違う残酷さ、無常さが好きです。

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