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狂乱のロードウォリアー/エドウィン・バレロ

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いつものレジェンドインタビューはなじみ深い選手がほぼいなくなりました。まだ現役のパッキャオなどがありますが、いつかにとっておこう。これはたまたまみかけたものですが、テキストがクリック禁止になっていたので細かい訳やわからない単語は省略しニュアンスだけとなっております。

殺人者である前にエドウィン・バレロはボクサーだった。
そしてボクサーになる以前、1981年12月3日、貧困と暴力の時代にベネズエラで生まれた。ストリートファイトやアルコール、コカイン、警察沙汰、この過酷な環境が彼を犯罪からの逃避、ボクシングのリングへと導いた。

ダグ・フィッシャー(ボクシングジャーナリスト)
「彼の練習、スパーをみました。スピードバッグからヘビーバッグ、シャドーボクシングまで・・・他のプロボクサーとは一線を画していました。スパーリングパートナーなど簡単にあしらっていました。」

その中には後にスティーブ・ジョンストンを破り世界王者になるファン・ラスカーノもいた。

ダグ・フィッシャー
「ラスカーノでさえバレロの相手になりませんでした。2,3回はスパーリングしましたが、とても太刀打ちできないので、ラスカーノはホエル・カサマヨールの方が練習になると相手を変えてしまいました。」

バレロは将来の世界王者を世話しながら自身はプロとして8連勝を全て3分以内で終わらせた。それはバレロの全勝全初回KO記録の序章に過ぎなかった。

その後も初回KOを続け、12連続初回KOでHBOデビューを目前にするも、危機に直面した。MRIで脳溢血の可能性がある小さな斑点がみられたのだ。それはプロになる前のバイク事故が原因だった。ヘルメットを装着していなかったバレロは頭蓋骨を骨折、脳からも出血し手術を受けていた。

それに伴い、ニューヨーク州スポーツ委員会はバレロにアメリカでのボクシングライセンスを発行しなかった。バレロのプロキャリアは停滞してしまった。

ダグ・フィッシャー
「バレロは諦めきれず、周囲の人間を疑い始めていた。人間不信だ。できたばかりのゴールデンボーイプロモーション、マネージャーのオスカー・デラホーヤの父親などを。」

バレロの常軌を逸した暴力的な性格はそのわずかな脳障害に原因があったのだろうか?2010年の衝撃的な事件の発火原因となりえたのだろうか?おそらく無関係ではないとおもうが、個人の遺伝的資質と環境が生み出す問題に答えを導き出すことは困難だ。彼の生まれた環境のすぐそこにある暴力、彼が選んだ職業は拳だけではなく頭にも無数の打撃を与えた。

これら全ての要素が重なり合うことで事件が起きた可能性がある。ある時点でバレロはアルコールとコカインに溺れ、それが衝動的な狂気を加速させた可能性がある。

アメリカでのライセンスが却下され行き詰ったバレロはベネズエラに戻り、ゴールデンボーイプロモーションとの縁を断ち、日本の帝拳プロモーションと契約を結んだ。

パナマ、メキシコ、フランス、そして日本と故郷のベネズエラ、各地を転戦するロードウォリアーになった。全勝、全初回ノックアウトの記録は日本でヘナロ・トラザンコスと戦うまで18連続を記録した。(トラザンコスは2回KO)

2006年8月5日、パナマでWBAスーパーフェザー級王者、ビセンテ・モスケラに挑戦した時がバレロにとって初めての試練となった。初回で2度のダウンを奪ったバレロは今までのように速攻KOで試合を終わらせるようにみえたが、モスケラはサバイブし3回にははじめてバレロはダウンも喫した。しかし最終的には10回KOでモスケラを破り王者になった。

世界王者になった事で、不遇なバレロのキャリアが少しでも報われると予想されたが、バレロはより粗悪で不機嫌になっていった。

ダグ・フィッシャー
「バレロが世界王者になって以来、バレロの妻の笑顔をみたことがない。」

バレロの周囲でもっとも変わったのは、彼の妻、ジェニファー・カリライナ・ビエラだった。カリフォルニア州に移動したバレロは若い妻を束縛しひどい嫉妬にかられていた。

2009年4月、アントニオ・ピタルアを2回KOし空位のWBC王座を獲得、帝拳の友人にバレロについて「彼はいい奴みたいだね」とかまをかけてみると、日本の友人は本能的なしかめっ面で答えるのみだった。まるで私が猫を拷問するのが好きかのような冷ややかな反応だった。数年後、トップランクのボブ・アラムはバレロに対する態度を特徴的に表現した。

ボブ・アラム
「バレロは常軌を逸していた。親切な奴かとおもいきや突如暴走する。普通ではなかった。」

ボブ・アラムはバレロのためにテキサス州ならばボクシングのライセンスが発行されると奔走したが、今ではそれを否定している。爆発的な強さを誇るバレロとパッキャオを対戦させる話があった。当時のパッキャオのトレーナーであるフレディ・ローチはこの試合を受け入れていた。

フレディ・ローチ
「バレロは少しスピードがないが、多くの力を持っている。パッキャオにとり一番のライバルはバレロだ。彼はとても危険だ。」

しかし試合は実現しなかった。
バレロの行動は益々常軌を逸していった。ベネズエラの国旗と大統領、ウーゴ・チャベスの肖像のタトゥーを胸に刻み、プエルタ戦後に再びアメリカに入国拒否されたのはこの入れ墨のせいだと主張、テキサスではそのせいで運転中罰金を受けたと言いだした。

その後、ヘクター・ベラスケス相手にタイトルを防衛、メキシコのアントニオ・デマルコ戦が最後の試合となった。バレロのリング外のサイレンは赤く点滅をはじめた。

2009年9月、故郷のメリダで妻と母親を襲った。
デマルコ戦から1ヵ月、妻のジェニファーは肺を潰され、肋骨を折られ病院に搬送された。
妻が入院した病院で医師や看護師を脅したバレロは逮捕され、暴行し、妻との接見禁止令が出された。

その後バレロは治療と観察のため精神病院に入院するが、2010年4月7日に退院、キューバのリハビリ施設に入るよう手配された。空港に向かう途中、酔ったバレロは自動車事故を起こし飛行機に乗り遅れる。

妻への暴行で警察に護衛をつけられていたものの、彼らに賄賂をわたし、妻と一緒にバレンシアの町まで移動、ホテルインターコンチネンタルにチェックイン。

翌朝、5時30分、バレロは裸足でホテルのフロントを訪れ、静かに妻を殺害したと告げた。
バレロの言葉通りにジェニファーは殺害された。

逮捕された時、バレロは抵抗を示さなかった。酔っているかクスリでハイになっていると懸念され、暴れて自殺する可能性があるとして靴紐とジャケットを外されたが、スウェットパンツを身に着けることを許された。そして2010年、4月19日の早朝、刑務所の独房でそのスウェットパンツを用い、首を吊って自殺した。

28歳だった。

テキサスでの戦いを思い出す。私はバレロと熱い抱擁を交わした。彼の肩越しには妻のジェニファーと2人の子供がいて私を不安な目で見ていた。きっと彼らは見知らぬ国の言葉の通じぬ私を警戒していたのだろう。今になっておもうと彼らの不安な目つきは恐怖であり、沈黙の助けを求めていたような気がする。

帝拳ジム所属として真近でバレロをみてきた浜田剛氏は一貫してバレロはパッキャオに勝つと言っていた。現実か妄想かわからないが、バレロの暴走は妻への嫉妬、不倫疑惑だったのだろうか?

桁違いの強さで後の世界王者も子ども扱いしていたバレロは脳溢血の疑いでスムーズに出世できずゴールデンボーイプロモーションから帝拳ジムへ、各国を巡るロードウォリアーになった。そんな不遇への憤り、怒りの爆発がアルコールやクスリ漬けの人生へと転落させたのか。

享年28歳 怪物だった。

殺人者である前にボクサーとして記憶に刻む。

生涯戦績
アマチュアボクシング:92戦86勝(57KO・RSC)6敗
プロボクシング:27戦27勝(27KO)無敗
プロデビューからの18戦はすべて初回KO勝ち

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原始的で単純明快なスポーツです。生涯一度の敗北、無敗で引退したボクサーもいます。負けても次頑張りますというスポーツとは違う残酷さ、無常さが好きです。

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