闘い続ける理由/シリモンコン・シンワンチャー
New World Boxing Council (WBC) super featherweight champion Sirimongkol Singmanassuk of Thailand (C) raises his arm high in jubilation with his trainers after knocking out Japan's Kengo Nagashima in the second round of their World Boxing Council (WBC) super featherweight title bout in Tokyo 24 August 2002. AFP PHOTO/TOSHIFIUMI KITAMURA (Photo by Toshifumi KITAMURA / AFP) (Photo credit should read TOSHIFUMI KITAMURA/AFP/Getty Images)

マニー・パッキャオの映画が最近フィリピンで公開されたが、タイのボクサー、シリモンコン・シンワンチャーが導いたジェットコースターのような人生のスライドと比較すると、パッキャオの信じられないほどのサクセスストーリーでさえ平凡にみえてしまう。闘うことは嫌いだと公言していた少年は、闘い続けるしか術がなかった。

https://www.youtube.com/watch?v=4MbmgwTSLMs

WBC世界バンタム級王者およびWBC世界スーパーフェザー級王者を経験し、世界2階級制覇の実績を持つシリモンコンのリング外でのエピソードはもっと多彩だ。麻薬取引で20年の実刑判決を受けた苦悩、ゲイ雑誌に写真が掲載された屈辱、37歳を過ぎた今もまだ戦い続けている。(5年前の記事です。)

シリモンコン・シンワンチャー(本名シリモンコン・ランチュオム)はタイ、パトゥムターニー県で生まれた。実家がシンマナサック・ムエタイスクールであり、元ナックムエである実父マノップ・シンマナサックからムエタイの練習をさせられたため、ムエタイの試合は嫌いになった。本人は闘うことを嫌っており、特に幼少期の体験からムエタイの試合を行うことは非常に嫌いだと公言している。国際式ボクシングを始めるまで、シリモンコン・シンマナサック(Sirimongkol Singmanasak)というリングネームで国技ムエタイのリングに上がり続けた。

1992年、ランシットスタジアム105ポンド級のムエタイ王者となった。その後、ムエタイでは敵がいなくなったのでボクシングに転向、WBCの委員会の一員だったサハソムポップ・シーシムウォングの後援するボクサーとなった。

1996年5月5日、バンコクで元WBA世界スーパーフライ級王者鬼塚勝也との2度の死闘で知られるタノムサク・シスボーベーと対戦し、3回KO勝ち。

1996年8月10日、ピッサヌローク県のサッカー場で元WBC世界スーパーフライ級王者ホセ・ルイス・ブエノ(メキシコ)とWBC世界バンタム級暫定王座決定戦を行い、5回0分59秒TKO勝ちを収め王座獲得に成功。

1997年夏の指名挑戦者・元王者ビクトル・ラバナレスに大差判定で圧勝し11月22日、4度目の防衛戦。大阪城ホールで元王者辰吉丈一郎と対戦し、プロ初黒星となる7回1分54秒TKO負けを喫し王座から陥落。

https://www.youtube.com/watch?v=4MbmgwTSLMs

減量苦を理由に一気に2階級飛び越し、スーパーフェザー級に転向。

2002年8月22日、辰吉戦以来5年ぶりの世界戦。両国国技館で行われたWBC世界スーパーフェザー級王座決定戦で長嶋健吾と対戦し、2回2分22秒KO勝ちで2階級飛び越しての2階級制覇に成功した。

https://www.youtube.com/watch?v=40lBB-xR_R4

翌2003年1月13日に後楽園ホールで元WBA世界スーパーフェザー級王者崔龍洙(シャイアン長谷川ジム所属、韓国出身)と対戦し、3-0(119-109、119-109、118-110)の判定勝ちで初防衛に成功、その後、5月にノンタイトル戦を行い、8月15日にアメリカ合衆国テキサス州オースティンのコンベンションセンターで指名挑戦者ヘスス・チャベス(メキシコ)と対戦したが、0-3(111-117、111-117、110-118)の判定負けを喫し王座から陥落した。

それ以来、幾多の戦い、年月を経て彼はプライムをとうに過ぎたが、10年以上経ても誰もシリモンコンを破った者はおらず、ヘスス・チャベスに負けて以来41連勝中だ。

ヘスス・チャベスに負けてから彼は麻薬に溺れた。6年後、2009年はノンタイトル戦3試合を行った。2009年8月12日にはナコーンラーチャシーマー県での10回戦に2RKO勝利を収めたが、同月30日に覚せい剤所持容疑で逮捕され、密売と自身の常用を認めた。

これで彼のキャリアは完全に終わったはずだった。

シリモンコンが悪いニュースでヘッドラインを飾ったのはこれが初めてではない。2005年には政府によるポルノ取締中に、「熱」と呼ばれるゲイ雑誌に彼のみだらな写真が掲載されていることが発覚した。

写真は数年前のものだったが、シリモンコンはわいせつ罪で有罪判決となり、6か月の執行猶予付き判決を受けた。彼は後悔と反省の気持ちを表明したが、ボクサーが服を脱いだだけで6000米ドルの報酬を受け取ったという事実は、試合より楽な仕事と理解できなくもなかった。

1994年にプロとしてデビュー以来、シリモンコンが人生で一貫してきたことはボクシングだけであり、ポルノ写真を取り巻くスキャンダルで人生が破綻、混乱している時期でさえ、彼はWBC挑戦者決定戦でマイケル・クラークに7回1分50秒TKO勝ちを収め、WBC世界ライト級王座への挑戦権を獲得したりした。

残念なことにその後B型肝炎にかかり、タイトルへの挑戦は叶うことがなかった。(アメリカ合衆国で稲田千賢とWBC世界ライト級暫定王座決定戦を行う予定であったが、急病(B型肝炎)のためキャンセル、稲田は代役のホセ・アルマンド・サンタクルス〈メキシコ〉と対戦したが、6回TKO負け。)

財政的苦境のシリモンコンはタイでチープなローカルファイトを続けるしかなかった。2008年、リッキー・ハットンのプロモーションがシリモンコンの現状を知り、大きな後押しをした。ラスベガスのMGMグランド、リッキー・ハットンVSポール・マリナッジの前座で戦う機会を与えられた。

エイドリアン・ブローナーやマイキー・ガルシアなど新進気鋭のホープに混じって、ウェルター級でレジリオ・カスタネダJrにMDで勝ったがその後二度と大きな舞台に呼ばれることはなかった。2009年、パタヤの顧客に覚せい剤を密売した容疑で逮捕され、タイの過酷な刑務所で20年の懲役刑を宣告された。

彼のキャリアはボロボロだった。2010年は17歳からプロボクシングを始めて以来始めて1試合もしなかった。その後ももう戦うことはできないはずだった。

刑務所にいる間、彼は「The Teacher」としてボクシングトレーナーになることで過ごした。教え子の中には強盗で15年の刑を受けていた後の世界王者、アムナット・ルエンロンがいた。チャロンポン・サワドスクも教え子の一人だったが、彼はわずか初回114秒でクドラティロ・アブドゥカコロフにノックアウト負けした。だから後のクドラティロ・アブドゥカコロフ戦はシリモンコンの復讐でもあったのだ。

刑務所当局の助力を受け、2011年からキャリアを再開することになった。2013年、シリモンコンはタイで最高のボクサーの一人であると恩赦を受け、わずか4年で完全に釈放された。その後WBOアジア太平洋ベルトなどのマイナーな王座も獲得し勝ち続けている。

シリモンコンが現在戦っている相手の質が低いという批判は当然だ。最新の勝利はタイの英語学校のアメリカ人講師のプロデビュー戦だった。しかし数か月前にはパッキャオの元スパーリングパートナー、ダン・ナザレノJrも下している以上、まだ一定の力は残しているようだ。

40歳に近いシリモンコンは今後どうするのだろう。今、彼の戦績は83勝2敗だ。最後に負けてから10年以上経つ。

シリモンコン
「私は今、家族のために戦っています。過去に道を外れ人生に迷いました。刑務所に送られ両親が訪ねてきた時、私は泣きました。世話をすべき家族がいる、私のことを慕ってくれる人がいると気づきました。」

今後も忙しくリングに上がる予定だ。

5年前の記事で、現在42歳、2018年9月1日にMuhammad Nsubugaという0勝6敗の相手にKO勝利して以来試合をしていない。

恐らく遂に引退だろう。身体は大丈夫だろうか。あれから、小原に勝ったクドラティロ・アブドゥカコロフに判定負け。オーストラリアのトミー・ブラウンというベテランに判定負け、戦績を96勝61KO4敗としている。トミー・ブラウン戦はスーパーウェルター級だ。

これだけ長いキャリアで唯一倒されて負けたのはあの辰吉戦だけである。文成吉や川島郭志と接戦を演じたホセ・ルイス・ブエノを軽くKOして戴冠した時は大きくて恐ろしいバンタム級王者が誕生したな、これは敵わないな、と感じたものだ。あの頃は強いタイ人王者が軽量級にいた。しかし皆ほとんど長続きしなかった。辰吉戦は辰吉自身が傷つきピークを過ぎており、悲観的な意見しかなかった。

辰吉の奇跡の戴冠劇であると共に、シリモンコンの減量失敗の失態でもあった。

あれから2階級目を献上したのは日本の長嶋健吾だった。
2階級上げても長嶋よりパワフルだった。

その後、まさかこんな数奇なキャリアを辿るとはおもいもしなかったが、極端にローカルで変な試合ばかり重ねてきたのは、犯罪と関係があったのだ。

戦い続けなければ自分でいられない、世間に認めてもらえない。財政的にも苦しかったのだろう。

闘うことは非常に嫌いだと公言していた少年は、闘い続けるしか術がなかった。

にほんブログ村 格闘技ブログ ボクシングへ にほんブログ村 格闘技ブログへ

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

Twitter で
What’s your Reaction?
最高
最高
0
いいね
いいね
0
ハハハ
ハハハ
0
うーん
うーん
0
がっかり
がっかり
0
最低
最低
0
おすすめの記事