雲のうしろには太陽の光/(ウィンキー)ロナルド・ライト Vol.1

自分がボクシングをやるならこの男に学びたい。かつてこう書いた心の巨匠がロナルド(ウィンキー)ライトだ。彼が無残に打たれ、倒れるのをみた事がない。ディフェンスの達人として不人気で地味な立場に甘んじていたが、私には決して眠たいファイトスタイルではなかった。多くのレジェンドを紹介すると悲劇になることも多かったこのシリーズ、ロナルド(ウィンキー)ライトに限ってはそんな事はありませんでした。苦労が違う、どこまでも大人の気品に溢れていました。

たぶんそれは厄介なスタイルで相手を愚かにみせることができる、たぶんそれはサウスポーだったかもしれない。

小さなプロモーターと契約したことで、オリンピックや大きな成功の夢は遠のいたに違いない。6年かけて地球をさまよい、3つの大陸、7つの国で戦った。アメリカのスポットライトからは遠くかけ離れていた。

彼のニックネームは「ウィンキー」。
普通、ファイターにはロッキー、シュガー、マーベラスなど、豪華なニックネームがつく。「ウィンキー」はありえない。

ライト
「祖母が私が1歳の時につけたニックネームです。赤ん坊の私がウィンクしたからだそうです。ロナルドと言われるよりウィンキーの方が好きです。」

ワシントンDCで生まれたライトは、16歳でフロリダ州セントピーターズバーグに引っ越した。その年齢で新しい友達を作るのは大変なことだが、ライトはボクシングに出会い、それを追求することに決めた。セントピートボクシングクラブに迷い込み、グローブをはめた時、彼はもう一人ではなかった。

ダン・バーミンガム(トレーナー)
「ウィンキーは吸収が早かった。3~4週間後には当時70戦くらいアマチュアをやっていたデビッド・サントスとスパーリングしていた。」

ボクシングを初めて1年もせずにライトはサンシャインステートゴールデングローブスで優勝、翌年も優勝し、数々のメダルを獲得した。アマチュア戦績は最終的に65勝4敗だった。1992年のオリンピックでオスカー・デラホーヤが金メダルを獲得したのに刺激されたが、18歳でプロの勧誘を受けた。

ダン・バーミンガム(トレーナー)
「18歳のウィンキーには大きな誘惑だった。彼は車が欲しかったんだ。契約金は2万ドルもなかったけどプロ入りを決めた。私も意志が弱くてウィンキーと一緒にプロについていくことにした。」

プロ入り契約は成功の高速道路のように見えたかもしれないが、その道を駆け抜けたのはデラホーヤのような一部のスターだけだった。3年間で16連勝したが、誰もライトに目を向ける者はいなかった。

フランスのミシェルとルイ・アカリエが、彼らを海外に誘った。(ここでアイク・クオーティーと交流した。)ライトの22年間のボクシングキャリアの初期の5年間、彼は旅人になった。

長くトレーナーを務めたダン・バーミンガムもフロリダ州のタンパのジムから、ライトと共にチャンスを求めて世界中に飛びだした。

ルクセンブルク、フランス、ドイツ、モナコ、アルゼンチン、イギリス、南アフリカ

ライトは常に海を越えてやってきたアンダードッグだったが、同時に謎の男でもあり続けた。

彼のパスポートはスタンプでいっぱいだ。常に勝ち続けてはいたものの1994年、フランスで時の世界王者フリオ・セサール・バスケスに挑戦し初めて負けた時(勝ちに等しい内容)彼はキャリアを無駄にしているようにもみえた。しかしロードウォリアーである事は厳しく、常に地元判定に苦しみながらも、ライトは決して希望を捨てることはなかった。

結局、ライトは大金を稼ぐことは出来なかった。滑らかで守備的なサウスポーは名声と富を求めるファイターには都合のいいスタイルとはいえなかった。

ライト
「ブラックホールにいるようだとは言いません。実際自分がどうなっていくのかわかりませんでした。海外で多くの試合をしていてそれどころではなかったからです。目の前の敵を倒すことで精いっぱいでした。ホーム(アメリカ)のファンの前でそれを証明する必要があるということだけでした。」

ライトは決して諦めなかった。

ライト
「勝ち続けていくのみです。チャンスを掴むために全ての相手に勝ち続けていく。それを完全に演じていきました。素晴らしいキャリアへの長い長い戦いがありました。」

ライトの言う通り、時間をかけて彼はついにベストファイターの仲間入りを果たした。スーパーウェルター級で2度王者になり長期政権を築き議論の余地なき王者に君臨した。国際ボクシングの殿堂入りも果たした。

ボクシング史上最高のディフェンスマスターとして知られるライトは殿堂入りの知らせを受け、喜んだ。

ライト
「私のボクシングキャリアが評価されて素晴らしい気分です。最初にバーミンガムに知らせました。彼と共にこの道を歩んだ。共に成長した。一緒にやってきて本当に良かった。」

絶え間ない旅で信用を得られなかったライトが1996年にブロンコ・マッカートに挑戦した時、彼は相手の芝生で自分自身を見つけた。マッカートの地元ミシガン州のモンローでスプリットで勝利し遂に王座を獲得。

イギリスで3度の防衛に成功すると今度は1998年、南アフリカでハリー・サイモンに0-2判定で敗れ王座から陥落。試合は物議を醸す内容といえた。

その後ライトはアメリカに戻り、当時最も勢いのあったフェルナンド・バルガスの指名挑戦者として、初めてHBOでテレビデビューした。

ライトは勝ちに等しい試合を演じたが結果はバルガスの判定勝利となった。その後ライトは8年間負けなしの快進撃を続けていくが、バルガス戦の敗北は今でも心に傷を残している。

ライト
「とても残念な結果でした。勝っていたとおもう。バルガスはトラッシュトークばかりのまだ17戦しかしていない子供でした。彼は誰でも倒せると息巻いていた。私はこの子供に罰を与えてやろうとおもっていた。」

2001年、空位の王座をロバート・フレイジャーと争い、再び王座を獲得した。その試合をみたロイ・ジョーンズJrがライトに感銘を受け、プロモーション契約をし自分の試合の前座で4試合戦わせた。しかしライトにビッグマッチ、大きなファイトマネーが訪れることはなかった。

オスカー・デラホーヤもシェーン・モズリーも他の有名なファイターたちは誰もライトのドアをノックしなかった。カジュアルなスポーツファンにウィンキーが誰であるか尋ねても、漫画のキャラクターと勘違いした。

Vol.2に続く

Vol.2に続くと書いて、まだきちんと読んでいないのではっきりとは言えないが、ロナルド(ウィンキー)ライトは今でも堅実な実業家として活躍しているようだ。キャリアを振り返ればそれがよくわかる。様々な国を旅し経験を積んだライトは誰よりも大人の風格、品格がある。セカンドキャリアにダメージを残さない、徹底した守備の達人の地頭の良さを感じるのだ。

お楽しみに・・・

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