桃色無頼漢/(桃色の左)センサク・ムアンスリン

規格外のボクサー、ボクシングだけみると遅く、下手にみえるが、ムエタイで培った技術、トリッキーさ、そして無類のタフネスと超強打、懐の深さ、とにかく体格で劣る者にはムチャクチャやりにくそうなスタイル全開の王者といえよう。アッパーが強いのも恐ろしい。

アマチュアをみても、超エリートがタイ人に負けていたりムエタイのスターがそのまま金メダルになったり(アトランタでフロイド・メイウェザーが銅メダルだった時の金メダルはタイのソムラック・カムシンだ。)異種格闘技、とりわけムエタイは侮れません。

なんでこんな怪物が「桃色の左」なんてかわいらしいニックネームなのかは不明です。

ボクシングの真実のひとつに、ムエタイのファイターがキャリア稼ぎのために利用されるというのがある。タイ人の同じ名前のファイターがあらゆる選手のキャリアに含まれていたりして、大抵は踏み台にされている。しかし時として何の前触れもなく現れて、オッズをひっくり返し、彼らを侮ったことを後悔させる怪物が混じっていたりする。

センサク・ムアンスリンがそうだった。

いきなりデビュー戦で世界6位のフィリピンのルディ・バロを残忍に1回KOに破ってデビュー

2戦目で日本の強豪ライオン古山を7回KO。そしてペリコ・フェルナンデスを8回KOで下し、プロ転向からわずか3試合で世界タイトルを獲得した。

ライオン古山はリベンジの意欲に燃え、しっかり準備を整えていた。彼らのリマッチは緊密な15ラウンドの戦いとなったが、その試合ではじめてムアンスリンの技術的なクオリティに色々と気付かされる。ムアンスリンはほとんど調整することもなく、いきなり相手を理解し攻撃の手を強める。ムエタイの技術に裏打ちされたディフェンスと、頑丈なアゴ、ハードパンチ。ムアンスリンは規格外のノックアウトパンチャーだった。

ムアンスリンが下がり、古山が攻めていくが、多くのダメージを与えるのはいつもムアンスリンだ。戦いが進むにつれて、ムアンスリンはありとあらゆるパンチを古山に当てた。ムアンスリンVS古山の再戦は血と根性の熱戦だった。

スペインでミゲル・ベラスケスを挑戦者に2度目の防衛戦を行うが、ダウンを奪うなど一方的にリードしながらも4回終了間際のラッシュ中にゴングが鳴り、その直後ダウンしたベラスケスが立ち上がらず反則負けで防衛失敗。

しかしWBCがリマッチを承認、4か月後スペインでベラスケスとの再戦を2回KOであっさり王制して王座に返り咲いた。

モンロー・ブルックス、有名な日本のガッツ石松などを含む7度の防衛に成功。ガッツ石松はレジェンドのケン・ブキャナンに勝ったり、ピークのロベルト・デュランと戦うなど、かなり強力な相手とみられていたがムアンスリンは強すぎて石松の序盤の攻撃を無効化し、6回に圧倒的な攻撃でストップした。

https://www.youtube.com/watch?v=y86tVtCOVlk

7度の防衛のうち判定が2つあったが、一つはかつて破ったペリコ・フェルナンデスに返り討ち、スリックで耐久力のあるサウル・マンビーに対する勝利は地元判定気味でラッキーだったといえる。その後2度の防衛はノックアウトで決めた。当時38勝1敗という経験豊富なジョ・キンプアニなども含まれた。

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しかしムアンスリンのスタイルは徐々に研究されていった。8度目の防衛戦で韓国の金相賢に13回KOされ陥落。ギャングのような韓国人の金相賢はその後サウル・マンビーにタイトルを奪われるが、私が知っているのはアーロン・プライヤーに対する哀れな姿だけだ。

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ウェルター級に転向したムアンスリンは下り坂でほとんどいいところがなかった。彼は自分を克服するためにデトロイト出身の最強のスターと対戦した。

もはやムアンスリンにチャンスはないとおもわれたが、最強王者、トーマス・ハーンズに対して、彼は懸命な抵抗をしてみせた。いつものスタイルを変えて、ハーンズにパンチの雨を打たせた。若いハーンズに対する衝撃的なゲームプランといえるものだった。速いハーンズについていけず打ち込まれ何度も倒れたムアンスリンだが脅威のタフネスを発揮した。

信じられないほどムアンスリンは立ち上がって試合を再開し、ノックアウト負けを拒否し続けた。時に正確なアッパーなどでハーンズに反撃もした。あまりに打たれたムアンスリンを最後はレフリーが止めた。

生涯戦績20戦14勝(11KO)6敗

2009年4月13日、バンコクの病院で肝炎の手術を受けたが病状は回復せず、3日後の4月16日死去。以前から重い認知症に苦しんでいた。ムエタイの経験を頼りに、ほんのわずかなボクシングの調味料だけしか持っていなかったにも関わらず、プロたった3試合で世界王者となり、通算9度も防衛する厄介で偉大なスラッガーだった。

もうちょい大事に育てることが出来れば
もっと偉大なファイターになれたかもしれない。

センサク・ムアンスリン補足

センサク・ムアンスリン(1950年8月13日 - 2009年4月16日)は、タイの元男子プロボクサー。
前歴は元ムエタイ選手。本名はブンソン・マンシリ (Boonsong Mansri)。
ボクシング史上最短となる3戦目で世界王座奪取という記録を持つ。
元世界ボクシング評議会 (WBC)世界スーパーライト級王者。

ムエタイ選手としてキャリアを歩み始め、ルンピニー・スタジアムのスーパーライト級チャンピオンとなる。アマチュアボクシングでは1973年の東南アジア競技大会で金メダルを獲得。プロボクシングデビューは1974年、当時のマネージャーが3戦で世界を獲ることを宣言し、いきなり世界6位のルディ・バロを1回KOに破る。2戦目で日本の強豪ライオン古山を7回KO。そしてペリコ・フェルナンデスを8回KOで下し、公言どおりプロ転向からわずか3試合で世界タイトルを獲得した。

ガッツ石松を悶絶させたセンサクは試合後のリング外でも怪物ぶりを発揮した。
『すぐにでももうひと試合できる。精力があり余って眠れない』と豪語してそのまま夜の街に出撃。驚くなかれ、ソープを3軒もハシゴ。こちらの方でも無類の"ハードパンチ"を打ち込んで"対戦相手"を悶絶させ、ようやくホテルに戻ったという武勇伝を残した。それとは別に、ガッツ石松との試合前にもソープで抜いてきたという説もあるが真偽のほどは定かではない。

2009年4月13日、バンコクの病院で肝炎の手術を受けたが病状は回復せず、3日後の4月16日死去。

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