遅すぎた無冠の帝王/(Slav)ヴィアチェスラフ・ヤノフスキー

「君はもう30歳を超えている。若い者に変わってやれないか」
ソビエトの国歌が聞こえた時は鳥肌が立ちました。ボクシングはとても繊細で微妙なスポーツです。私は代表から消されてしまいそうでした。

1988年、ヴィアチェスラフ・ヤノフスキーはソウルオリンピックで初の金メダリストとなったベラルーシのボクサーだ。このスポーツの明確なリーダーを予言することは不可能だ。63.5キロのスーパーライト級、当時31歳のベラルーシ・ヴィーツェプスク出身の男が金メダルを獲得したのはセンセーショナルな出来事だった。

しかしとてもテクニカルなヤノフスキーは整然と目標に達した。彼はベラルーシ初の、そしてソビエトでは13人目のオリンピックチャンピオンになった。

ヤノフスキー
「幼い頃はボクシングをしていませんでした。13歳でボクシングを始めましたが10年後になって初めて覚醒しました。けれど誰も私に期待していませんでした。コーチのヴァレリー・コンドラチェンコだけが決して諦めるなと言ってくれました。1981年にソビエト代表チームに選ばれて1982年に一旦ボクシングを辞めて戻ってきました。」

1985年、アメリカ、ネバダ州リノで行われた米ソトーナメントで優勝し最高のボクサーとして認められた。当時はキューバとアメリカのボクサーがアマチュアを席巻していた。彼らはその肌の色の印象的な見た目だけで畏怖されることも多かった。ヤノフスキーによるとキューバ選手に勝つということはパンにバターをつけるのではなくバターにパンをつけて食べるようなものだと言った。ヤノフスキーはニューヨークのリバティー島で32試合し30勝した。そのような活躍をみせたにも関わらず、1986年に再びボクシングを終わらせるつもりだった。

ヤノフスキー
「私はコーチになると決めていましたが、再び現役を続けることにしました。恐らくオリンピックの金メダルは私の運命、幸福であり、不確実なものでした。ソビエト連邦のチャンピオンでしたが、オリンピックに参加することを夢見ただけで最後の瞬間までソウルに行ける確信がありませんでした。はしごで飛行機に搭乗する途中、3回吐きました。飛行機が離陸してやっと安堵の溜息が出ました。」

何らかの理由で、ソビエトのボクシング連盟はヤノフスキーのオリンピックでの成功を信じていなかった。オリンピックの2週間前に彼らは最終選考をしたが、ヤノフスキーに対しては悲観的だった。

ソビエトのボクシング連盟の役人
「君はもう30歳を超えている。若い者に変わってやれないか」

ヤノフスキーは自分が心身ともに全盛期であることを確信していた。

ヤノフスキー
「ソウルは忘れることができません。2週間で私は6試合しました。マラソンで百キロ走ったような感覚です。決勝に到達したとき、私はクレーンの尾をつかんだと感じました。」

1988年のソウルオリンピックで、ヤノフスキーは西ドイツ代表、タンザニア代表、フランス代表、ザンビア代表を破った。決勝の相手はオーストラリアのグラハム・チェニーだった。ある意味2人ともラッキーだった。トーナメントの序盤で強豪を回避する運に恵まれた。

ヤノフスキー
「今になってもリングで何が起きたのか思い出せません。私の手が挙げられて金メダルを獲ったことに気づきました。オリンピックは私の人生で最も難しいものでした。ライバル達はとても滑らかで強敵ばかりでした。わずかな誤算は圧倒的な敗北に終わる可能性があります。ソビエト連邦のチャンピオンとして私は負けなかった。オリンピック村に戻るまでの6時間が5分のように感じました。ソビエトの国歌が聞こえた時は鳥肌が立ちました。ボクシングはとても繊細で微妙なスポーツです。私は代表から消されてしまいそうでした。」

1980年代後半、プロボクシングが解禁されヤノフスキーは日本でプロになった。日出る国でヤノフスキーは王者となり6度防衛した。その後ドイツに渡りそこでも王者となった。

たった一度の敗北でプロボクシングを引退し故郷のヴィーツェプスクに戻り、自分のジムを設立した。1997年、ベラルーシのアマチュアボクシング連盟会長を務めた。2年間熱意を込めて仕事に取り組んだが声明を出した。

ヤノフスキー
「私はベラルーシ人以外の選手を代表チームに入れるのに反対します。これが私の立場です。」

しかし現状はベラルーシ人以外の代表が主流になりつつある。

ヤノフスキー
「私はボクシングで腕やあばら、鼻を骨折しました。それでも自分の欠陥だとはおもっていません。ただの殴り合いですがボクシングは芸術です。まず観て楽しい、嘘がつけない本物のスポーツです。常に考え、行動する必要があります。自信は常に打ち砕かれます。12ラウンドが信じられないほどのペースで行われるプロボクシングでのみ、労力を対価として評価されることができました。それでも、レフリーがあなたの手を挙げた時、ジャンプして歓喜に震え、疲れを全く感じないのです。」

ソ連ボクシングチャンピオン
ボクシングワールドカップ優勝
ヨーロッパ選手権の銀メダル
ソウルオリンピックスーパーライト級金メダル
365戦270勝

第23代日本スーパーライト級王者
第3代PABAスーパーライト級王者
ロシアウェルター級王者
CISBBウェルター級王者
ドイツインターナショナルウェルター級王者

プロボクシング:32戦30勝(16KO)1敗1分

これまた自分のためのストックです。これがベストな記事ではないとおもうのでまた探します。ロシア語だかベラルーシ語なので訳もメチャクチャです。

ヴィアチェスラフ・ヤノフスキー、日本ではスラフ・ヤノフスキーはユーリ・アルバチャコフ、オルズベック・ナザロフに混じって最後の方まで日本に残っていたペレストロイカ軍団でした。彼だけがオリンピックメダリストでした。金メダルの時点で31歳だったので日本でリック吉村を子ども扱いして王者になった頃、既に34歳くらいだった事になる。

その後リック吉村は22度も王座を防衛する日本王者となり、WBA世界ライト級王者畑山隆則に勝ちでもおかしくない引き分けを演じたのだから、ヤノフスキーにいいタイミングで世界戦を組んでいたら間違いなく王者になれただろう。

1995年4月15日、IBFインターコンチネンタルウェルター級王者エドウィン・ムリーニョと対戦するが、10回KO負け。これがプロ唯一の敗戦となった。38歳だった。その後も戦い続け40歳で引退した。

ナターシャ・ラゴシーナ
[st-card-ex url="https://boxrec.com/en/proboxer/262676" target="_blank" rel="nofollow" label="" name="" bgcolor="" color="" readmore="続きを見る"] のコーチ、トレーナーをしていた。

ヤノフスキーのボクシングはアマチュアそのものだった。自分だけ当てて一発も食わない。かつて観たことがない芸術だった。もう少し若ければ、せめて金メダルをとった31歳くらいの頃であれば、あの伝説のフリオ・セサール・チャベスを塩漬けにして勝っていたのではないかとおもうほどだった。

当時のオリンピックはキューバやアメリカばかりが席巻しており、アメリカ人はプロでも名高い王者になっていった。キューバ人はそれこそ何度もメダルを獲るような猛者ばかりだった。そんな時代の最激戦区と言われるスーパーライト級で突如31歳の年寄りが金を獲得した事実に驚愕していたが、何かの事情でソウルオリンピックにキューバは出ていないようだ。翌1992年のバルセロナオリンピックから、キューバの悲劇の最高傑作、エクトール・ビネントがこの階級を連破していく。

ユーリ、ナザロフに続くプロの世界王者にはなれなかったヤノフスキーだが、故郷では大成功を収めた英雄として重職に就いている。立派な成功者だ。それはユーリ、ナザロフも同様、あの時の彼らは皆故郷で偉い役人になっている。

今までみたこともない、ロボットのような芸術をみせてくれたヴィアチェスラフ・ヤノフスキーを私は忘れない。

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