イラリオ・サパタ(Hilario Zapata、1958年8月19日 - )は、パナマの元プロボクサー。パナマシティ出身。元世界2階級制覇王者(ライトフライ級、フライ級)。「軟体動物」とも形容されたディフェンスワークに優れた技巧派の選手。その技量は評論家からも高く評価され、ボクシング・アナリスト増田茂はライトフライ級歴代最高のボクサーとして、具志堅用高、張正九、柳明佑を抑えてサパタを選出したことがある。中島成雄、友利正、穂積秀一といった日本勢との対戦により、日本のボクシングファンにとっては仇敵のような存在としても知られた。
イラリオ・サパタは対戦相手にとって悪夢のスタイルだった。巧妙なディフェンスマスターで16年のキャリアで2階級制覇した。彼はまたプライベートで悪魔と戦っていたにも関わらず世界各地を転戦し王座を守り抜いた。
サパタの生活はロベルト・デュランと同じパナマシティの悪名高いエルチョリージョ地区で始まった。大家族で6人の兄弟、2人の姉妹がいた。6歳の時サンミゲリドと呼ばれる町に引っ越した。
12歳の時、一目惚れをしてサパタははじめてボクシングジムに足を踏み入れた。
サパタ
「ひどいスパーリングをしたのでトレーナーは私のグローブを外して、帰れ、お前にボクシングは向いていないと言われました。」しかしサパタはめげることなく、ロベルト・デュランやエウセビオ・ペドラサが通ったこともある海岸近くの別のジムに行った。このジムがサパタのボクシングのキックオフとなった。
わずか1試合しただけで、サパタはパナマのゴールデングローブ大会に参加した。そこで当時有名な選手だったヘクター・カラスキラに敗れたが、マネージャーのルイス・エスパダに好印象を与えた。
その後サパタは172勝3敗という驚異的なアマチュアレコードを残し、5つのナショナルタイトルを獲得した。パナマで負けたのは1度だけだった。しかしオリンピックへの出場はあまり考えず、エスパダにキャリアを任せた。
プロデビューした(ブジア=点火プラグ)はただちに快進撃を続け、1980年3月24日、12戦目でWBC世界ライトフライ級王者中島成雄に挑戦し、15回判定勝ちで王座を獲得した。
トリッキーなサウスポーは活発に試合をこなし、中島成雄との再戦、ジョーイ・オリボ、ヘルマン・トーレス、ネトルノイ・ソー・ボラシングらを下し8度の防衛に成功した。
1982年2月26日、9度目の防衛戦でアマド・ウルスアと対戦し、2回KO負けで王座から陥落。
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失望したサパタはこの時、気を紛らわせるために薬物に手を出した。しかしボクシングではわずか5か月後に2度目のタイトルを獲得するチャンスを得た。
サパタ
「当時、ウルスアは指名挑戦者ではありませんでした。マネージャーが再戦契約をしていた。しかしウルスアは日本の友利正に負けたので私がすぐに友利と戦うことができました。」1982年7月10日、ウルスアから王座を奪取した友利正とタイトルマッチで対戦し、15回判定勝ちで王座に返り咲いた。
1982年9月18日、防衛戦で未来の殿堂入り王者となる張正九と対戦し、15回判定勝ちで初防衛に成功。
1982年11月30日、防衛戦で友利正と再戦し、8回KO勝ちで2度目の防衛に成功。
1983年3月26日、3度目の防衛戦で張正九と再戦し、3回KO負けで王座から陥落。
サパタ
「張とはじめて戦った時は彼がどれだけ強いかわからなかったけど初戦はイージーファイトだとおもった。再戦は減量苦がありました。計量後に私は太り過ぎました。エスパダは韓国人に言いました。「私のファイターは減量失敗で死んでいます。サパタは負けますからどうか試合を受けて下さい。」コンディションが良ければ再戦も簡単に勝てただろう。張はあれから偉大な記録を作ったけど全て自分のホームの韓国で試合をしたので、私は彼が殿堂入りに値するファイターだとはおもいません。私とは違います。私は韓国、日本、タイ、フィリピン、アメリカ、コロンビア、ベネズエラなど常にアウェーで戦ってきたのです。」
サパタはバンタム級で再起するも、ハロルド・ペティに敗れ連敗した。これでサパタのキャリアは落日を迎えるとおもわれたが、減量に励み、フライ級まで絞って4連勝した。
サパタ
「WBA,WBCで一位にランクされました。マネージャーがアルゼンチン出身だったのでアルゼンチン人王者のサントス・ラシアルに交渉していました。でもなかなか決まらず、その時私は再び麻薬に手を出してしまいました。試合には負けました。麻薬に手をださずきちんと準備していればと悔やまれます。」1984年12月8日、WBA世界フライ級王者サントス・ラシアルに挑戦し、15回判定負けで2階級制覇に失敗。
その後ラシアルが返上した王座をかけて、1985年10月5日、WBA世界フライ級王座決定戦でアロンソ・ゴンザレスと対戦し、15回判定勝ちで2階級制覇を果たした。
サパタ
「私は左手一本で戦いました。警察のトラブルに巻き込まれて、警棒で右手を叩かれて怪我をしていたのです。ゴンザレスと戦った時はまだ直っていませんでしたが、彼はパワフルなだけでテクニックがなかったので私は簡単に勝ちました。」その後、穂積秀一やドディ・ボーイ・ペニャロサを下し2階級目のフライ級を5度防衛するも、1987年2月13日、6度目の防衛戦でフィデル・バッサと対戦し、15回判定負けで王座から陥落した。
パナマのラジオジャーナリストのビジャレアルはこの試合がフェアでなかったと言う。
ビジャレアル
「サパタがロープにもたれていた時、リングの外から誰かがサパタの足を掴んだんだ。ウェルター級のトーマス・モリナレス(後にマーロン・スターリングをノックアウトした事で有名だが、ノックアウトパンチはゴングの後でノーコンテストに変更された。)がサパタをカットさせダウンさせたんだ。(ちょっと意味がわからない)サパタが回復するのを待たなければならなかった。失格になるべきだが、レフリーのエルネスト・マガナはここで試合を辞めたら負けにするぞと言った。サパタのマネージャーのルイス・エスパダはモリナレスがサパタを殴り、誰かが足を掴んだことを証明しパナマで再戦が組まれた。
1987年8月15日、フィデル・バッサとタイトルマッチで再戦し、15回判定ドローで王座返り咲きならず。しかし内容はバッサが勝っており、ファンが暴徒化しビール瓶をリングに投げ入れるなどし、その後に予定された試合が中止になった。
その頃、サパタはプライベートな闘い、麻薬に深刻に冒されていた。16か月のブランク明けで試合をするも格下に2連敗。その後、数戦勝利し1993年2月27日、WBC世界スーパーフライ級王者文成吉と対戦し、1回TKO負けで王座獲得ならず。この試合を最後に引退した。
通算戦績43勝14KO10敗1分。
世界戦18勝4KO5敗1分24試合の世界戦のうち、地元パナマで戦ったのは7回だけで、ロードウォリアーとして逞しいキャリアと能力を示した。
引退後、薬物中毒が彼の人生を襲った。コカイン、マリファナ、クラック、サパタの人生は崩壊した。
サパタ
「妻と子供達を失いました。家も薬で失いました。家を追い出され、長年路上生活を強いられました。」パナマ政府はリハビリのためにサパタを2度キューバの施設に送ろうとしたが失敗した。しかし18年間に渡る薬物中毒との闘いの果て、サパタは悪魔を打ち負かした。
サパタ
「変わらなければならないという信念だけでした。強い意志が必要でした。イエス・キリストへの回心をして、18年間にわたる、薬物、アルコール、喫煙を断ち切りました。」サパタのボクシング人生で初期のライバル、ヘクター・カラスキラは政治家として出世していたが、サパタの事を忘れることがなかった。
サパタ
「彼が私を助けてくれました。人生をやりなおすのに必要なものを提供してくれました。」サパタにとって最大の勝利は、ボクシングのリングの中にはなかった。
サパタ
「麻薬に打ち克ったことが私にとって人生最大の勝利でした。」2016年6月、サパタはパナマで5人目となるボクシングの国際殿堂入りを果たした。
サパタ
「ボクシングを始めた時、ロベルト・デュランのようになりたかった。彼はパナマ、ラテンアメリカで最高のファイターです。そして今私は不滅の殿堂入りを果たしました。」現在61歳になるサパタは再婚しており、2度の結婚で5人の子供がいる。地方自治体の仕事をし、次のオリンピックに向けて選挙に立候補するつもりだ。
ライバルについて
ベストジャブ ジョーイ・オリボ
リーチが長くジャブの使い方を熟知していました。序盤は彼のジャブで苦労しました。状況を分析し、彼のジャブにカウンターを合わせるのに時間がかかりました。
ベストディフェンス ルディ・クロフォード
サンフランシスコで戦ったニカラグア人です。私はディフェンスに自信があり、ディフェンスが優れた相手とは戦ったことがないから、防御が上手い彼との試合は私にとって楽しいものでした。徐々に隙をみつけ試合は簡単になっていきました。
ハンドスピード アルベルト・カストロ
自分にはスピードの優位性があるとずっとおもってきました。コロンビアのカストロははハードパンチャーですが、ハードパンチャーでパンチが速いというのは少ないのですが、彼は両方持っていました。私は初回で眉をカットしてあの試合は大変でした。
フットワーク 張正九
2度戦った韓国の男です。初戦の彼の動きはとてもよくて私は戦略を駆使して戦わねばなりませんでした。鏡と戦っているような気がしました。しかし再戦は全く違いました。
ベストチン 中島成雄
中島は打たれ強いアゴを持っていました。いいパンチがアゴを何度もとらえたが、彼は全く動じませんでした。
スマート フィデル・バッサ
彼は頭がいい。コロンビアで実業家として成功しているそうだ。図書館を所有し本を売っているそうです。私がコンビネーションを打とうとするたびに一歩引いて当てさせない。適応するのが大変だった。そして私の戦略に合わせるようにステップインしてくるのです。
屈強 カストロ
毎ラウンド強くてタフでした。あの頃は12回ではなく15回でした。15ラウンドずっとこのコロンビアンはアタックし続けてきました。ポイントリードしているのはわかっていましたが、彼にダメージを与えることができませんでした。判定勝ちがやっとでした。彼のパンチは強かった。
ベストパンチャー カストロ
カストロで決まりです。「パンテリータ」ウルスアは私をノックアウトしましたが、私がクレイジーファイトをしてしまった。ノックアウトされたパンチは見えなかった。見えないパンチはノックアウトを生むものです。しかしカストロのパンチは見えていて準備できていた。それなのに本当にパワーを感じました。ウルスアの時のように戦っていたら私はノックアウトされていたでしょう。私は自分がパンチャーではないことを自覚していたので、15ラウンドの戦争になるとわかっていました。毎ラウンドが戦争でした。
ベストスキル なし
私自身がスキルを売りにしていたので、他の誰かを選ぶのは難しいです。様々な国のファイター、それぞれのスタイルに対応せねばなりませんでした。誰でも同じように対応、測定はできないのです。テクニシャンとして様々な戦略を立てました。相手に応じて毎回プランを変えて戦いました。
総合 カストロ
私にとっては彼がベストでした。とてもいいファイターで2度戦いました。初戦で再戦をお願いされたから受けたのです。
私にとってはリアルタイムの世界王者ではないが、日本人にとってパナマといえばロベルト・デュランではなくサパタというくらいの天敵だったことは知っている。身体が固い傾向にある日本人と対極の、柔軟お化けのような身体能力を誇る。
同じ中米、南米でもパナマだけなぜかこの伝統がある。セレスティーノ・カバジェロ、アンセルモ・モレノ、ジェスレル・コラレス、どれも曲者だった。
サパタをあまり知らない身としては、日本人に全勝だが、じゃぁ具志堅用高と戦ったらどうだっただろうと言う興味がある。時代は被っていたはずだ。山中慎介がモレノを倒したような槍の左ストレートが炸裂することを期待してしまう。
しかし、本来持っている才能、常にアウェーで戦い、2階級で通算15度の防衛に成功しているキャリアは、公平にみるとアジアの具志堅や張正九、17度防衛の柳明佑より上と評価すべきなのかもしれない。
まだ階級の歴史が浅く、サパタのライバルと言われる選手には平凡なキャリアで世界王者になれなかった者も混じっている。本格的な実力者がいない時代に他とは少し次元の違う突出した才能だったのではないかと想像する。