階級別 ウェルター レジェンド

悲運のスーパーカー/(モーターシティ)オーバ・カー

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日本では名前がユニークなので覚えている人も多いだろう。マニアには無冠の帝王と言われたオーバ・カーはデトロイトのクロンクジム、エマニュエル・スチュワードのファイターとして、ハーンズやマクローリー、カリーに劣らぬ才能を持っていたが神の悪戯、時の運で一度も王者になることなくグローブを吊るした。その悲運はどこか日本の村田英次郎に似ている。

なにせ、挑んだ王者がトリニダード、クオーティー、デラホーヤ。彼ら全員キャリアピークで当時無敗だった。

デトロイト、ミシガン州の伝説的なクロンクジムは、偉大なファイター、世界チャンピオンを多く生み出してきた。トーマス・ハーンズ、ミルトン・マクローリー、ドナルド・カリーなどはAクラスのファイターであり皆世界王者になった。彼らの他にあらゆる点でAクラスの素質を備えたファイターがいたが、世界の頂点に到達することができなかった一人の男、彼こそ、(モーターシティ)オーバ・カーだ。

カーは1990年代常にウェルター級のトップレベルにいた熟練したエキサイティングなボクサーパンチャーで常にその時代のベストと戦った。

デトロイトで生まれたカーは6歳でボクシングを始め、168勝8敗という優れたアマチュアキャリアを引っさげ、17歳でプロデビュー、エマニュエル・スチュワードのクロンクジムに加わった。デビュー以来32連勝18KOを記録、その中で一番の勝利は21戦目、火曜日のTVで放映された試合でファンの電話投票で組まれたものだった。

1991年10月8日、ミシガン州のオーバーンヒルズ宮殿に13000人以上のファンを集めて行われたその試合はカーにとって世界レベルのファイターと戦う最初の試練であり、メインの世界戦の次期挑戦者決定戦の意味も込められていた。対戦相手の元世界王者リビングストン・ブランブルは熟練の技巧で初回、カーから2度のダウンを奪った。効いたダウンではなかったが、3ノックダウン制だったのでカーは懸命にデイフェンスしこのピンチを凌いだ。


リビングストン・ブランブル

その後はスピードにのったフットワークとジャブでリズムを作り5回には左フックでブランブルを効かせノックアウトを狙って強襲、このピンチを切り抜けたブランブルは再び持ち直し拮抗した試合は続いた。

この5回の攻防は今でも語り草でタイムカプセル入りのラウンドとなっている。

ベテランのブランブルは試合巧者でラウンドの残り30秒で攻勢を仕掛け印象点を勝ち取ろうとしたが、カーは徐々に順応していった。ラストの鐘がなり、運命はジャッジに委ねられた。クロスファイトの末スプリットでカーの手が挙がった。この試合はカーにとり大きな経験となった。

その後11連勝しフェリックス・トリニダード相手に初の世界挑戦権を獲得、1994年、メキシコモンテレーでIBFウェルター級タイトルマッチが行われた。トリニダードは打たれ脆く、カーにとっては相性がいい王者だとおもわれていた。しかしリング外ではマネージャーやトレーナーと多くの問題を抱えていた。カーのセコンドには不正疑惑で悪名高きトレーナーのパナマ・ルイスがいた。

2回、カーは右ストレートでトリニダードからダウンを奪う。すぐに立ち上がったトリニダードだが、カーはジャブを基点に試合をコントロールしトリニダードのハードパンチを捌いていった。しかしギアを上げたトリニダードに8回に捕まり2度のダウン、レフリーのロバート・ゴンザレスは試合を止めた。

カーにとっては痛い初黒星となったが、勇気、精神力、回復力を発揮し、7連勝5KOで再び世界戦線に復活、IBF王者アイク・クオーティーへの挑戦権を獲得した。ハンドスピードで上回り、高いガード故に空くクォーティの左右ボディを狙い王座に肉薄、10ラウンドには右でクォーティをグラつかせ、左ボディでダウンを奪った。しかし残念ながらこのダウンはローブローとされた。拮抗した12ラウンドを繰り広げるもマジョリティーデシジョンで敗北、またしても戴冠ならず。






これに折れず再起したカーは続く2年間で9勝1分、元王者のフランキー・ランドールに対する勝利も含まれた。

最後の世界戦、スーパースターのオスカー・デラホーヤに対する挑戦は、デラホーヤにとってはトリニダードとの無敗対決のためのチューンナップだった。1995年、5月22日、試合に先立ち、有名な解説者、ラリー・マーチャントは「カーはカー(車)でもオーバー・カーはチューンナップ車ではない」とカーを称えた。

カーは序盤にダウンするも11回にストップされるまで懸命に戦った。カーにとって最後のチャンス、失意の敗北となった。その後、2002年に引退するまで、3年間で6勝3敗とし、通算戦績は54勝31KO6敗1分。

彼は間違いなくクロンクジムの先輩達である、ハーンズやマクローリー、カリーレベルのファイターだった。世界王者になるための全てのツールを備えていたが遂にその栄光を掴むことなくリングを去った。

通算戦績54勝31KO6敗1分とあるが、デラホーヤに敗れ、3度世界の夢破れたキャリア晩年に3敗しており、実質トリニダード、クオーティー、デラホーヤ、当時全員無敗だったこの3人に負けただけ。元世界王者らにも勝っていた。

ニックネームはモーターシティ、まんまデトロイトの事やねん。

神に祝福されなかった無冠のスーパーカー。
ウェルター級の世界王座とはかくも高き砦なり。

おまけ

不正疑惑で悪名高きトレーナーのパナマ・ルイスとあるので補足。

パナマ・ルイス(Carlos "Panama" Lewis 、男性、1945年11月4日 - )は、ボクシングトレーナー。ボクシング史に残る凄惨な事件を起こしたことで知られる。

経歴
1980年代初期には、エマニュエル・スチュワードやルー・デュバと並ぶ名トレーナーとされていた。

薬物入りボトル疑惑
1982年11月12日、アーロン・プライヤー対アレクシス・アルゲリョでトレーナーとしてプライヤーのセコンドに付くが、13ラウンド終了後のインターバル中に、ルイスが「そのボトルじゃない、俺が混ぜたボトルを寄こせ」とアシスタントトレーナーに指示する姿を中継カメラが捉える。試合は14ラウンドにプライヤーがTKO勝ちするが、カメラが捉えていた発言からルイスが精神刺激薬を混ぜた水をプライヤーに与えたのではないかという疑惑が浮上する。ルイスはボトルの内容物は水道水と炭酸水のペリエを混ぜたものだと疑惑を否定し処分され無かったが、疑惑が晴れることはなかった。

後にHBOが製作したドキュメンタリー番組「リングの中の暴行罪」の中でボクサーのルイス・レストが、パナマ・ルイスは肺活量を増やしスタミナを増強させるために水の中に喘息薬を砕いて混ぜていたと証言している。

ビリー・コリンズ事件
1983年6月16日のビリー・コリンズ・ジュニア対ルイス・レストの試合で起きた事件。ロベルト・デュラン対デビー・ムーアの前座で行われ地上波テレビ局のABCが全米に中継した。

試合はルイス・レストが10回3-0の判定で勝利したことが告げられ、レストがコリンズのコーナーへ行き、コリンズのトレーナー兼父親のビリー・シニアに握手を求めた。しかしビリー・シニアがレストのボクシンググローブが普通よりも薄いことに気づき、ニューヨーク州ボクシングコミッションにグローブの調査を要求する。調査の結果、それぞれのグローブの手のひらの部分に0.75インチの穴が見つかり、1オンスずつ中綿が抜かれていたことが判明した。コリンズは虹彩を損傷するなど視力障害でこの試合を最後にボクシングを引退せざるを得なくなった。

1983年7月1日、ニューヨーク州コミッションはパナマ・ルイスがグローブに細工をしたと断定し、パナマ・ルイスのボクシングライセンスを永久に剥奪すことを決定。試合結果もノーコンテストに変更した。

1984年3月6日、コリンズがテネシー州の自宅近くで排水溝に車を激突させ事故死する。ボクシングを続けることが出来なくなったことに悲観しての自殺と言われている。

1986年10月、ルイスとレストは裁判にかけられ、暴行罪、武器の不法所持、犯罪の共謀で有罪となり、ルイスに懲役6年、レストに懲役3年が宣告される。(ルイスは1990年に出所する)

数年後、この事件に焦点を当てたドキュメンタリー番組「リングの中の暴行罪」の中で、レストはルイスが少なくとも2回グローブから中綿を抜いたことがあった事と、パンチ力を増すためにバンテージを石膏に浸していた事を証言している。

ルイスは現在もレストのバンテージを巻いたセコンドのアーティー・カーリーが不正をしたのであって、自分は無罪であると主張している。

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原始的で単純明快なスポーツです。生涯一度の敗北、無敗で引退したボクサーもいます。負けても次頑張りますというスポーツとは違う残酷さ、無常さが好きです。

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