我は神の子/「Prince」ナシーム・ハメド Vol.2

昨年、HBOはボクシングの歴史の幕を閉じ、数々の名勝負を過去のマスターピースとして封印しました。しかしこの当時のHBOがいかにボクシングに、ハメドに本気だったかがよく伝わる記事になっています。例によって難しい、長すぎるので、要約しちゃってますが、どうぞ・・・
こりゃVol.3で終わらないな・・・

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ジム・ランプレイ(HBO)
「ハメドの超変則スタイルがどのレベルまで通用し強さを維持できるのかわかりませんでした。本物の現象なのか、超エリートレベルで欠陥が露呈されるのかわからないままでした。なのでハメドの可能性については疑問がありました。それでもあのスタイルとノックアウトパワーは非常に魅力的でした。」

ハメド
「教科書にないボクシングのスタイルなのです。相手は私が次に何をするかわからない。予測不可能です。リングの隅から隅まで、5つの異なるアプローチでファイトできます。サウスポーもオーソドックスもできます。様々な角度からパンチが打てます。私にパンチを当てるのも避けるのも大変でしょう。そして気づけば相手はダウンしているか試合は終わっている。私のファイト、記録がそれを証明しています。」

この言葉からも、ハメドは自分自身について客観的に意見ができて、才能豊かでカリスマ的な話し手であることがわかるが、彼は常にインタビューに消極的で、メディアはとても苦労した。

ジム・ランプレイ(HBO)
「彼は非情に扱いが困難な男でした。試合前のインタビューさえ困難で私たちは諦めていました。ロイ・ジョーンズjr以来こんなファイターははじめてでした。ナズのコメントをもらうためだけに遠くまで旅をした事もたくさんあります。それでも3,4分話が聞けただけでした。」

この記事の執筆のためにハメドに様々なアプローチで取材を試みた。ある時点で接触に成功しOKをとりつけたものの反故にされたことがたくさんある。それは驚くべきことではない。インタビューは決して実現しなかった。

ラリー・マーチャント
「ハメドは賢い。必ずしも自己奉仕ではないけど彼のメディアに対する調子はモハメド・アリに共鳴した。ハメドは即興的なスタイルで相手を次々にノックアウトしてきた。それは同時に賢くてタフで強く、彼と同じスタイルを持った男(アリ)に共鳴していたんだとおもう。」

ジョージ・アザールが唯一ハメドに認められたジャーナリストだったので、彼に公私含め確認をしてみた。

アザール
「彼は決して変人ではなく、思慮深い知的な人間でした。高等教育を受けてきたわけではないですが極度に知的で鋭く礼儀正しい人でした。人々に対しても親切で丁寧でした。試合で演じているようなキャラではなく実社会ではあんなに傲慢で失礼であったことは一度もないです。その事についてハメドに聞いたことがあります。彼はこういうました。」

ハメド
「人々はボクシングがビジネスだということを忘れている。大きなショービジネスなのです。私がやっているのはショービジネスです。だから私は試合ではジョークのように振舞うんです。ファンはそれを喜んで私の試合を観るためにお金を払う、もしくは私を憎み、私がノックアウトされるのがみたくてお金を払う。どちらにせよ、いいビジネスなのです。」

ルー・ディベラ
「ハメドと10分間話ができるチャンスを得ました。堂々としたヘビー級ではなくイエメン系で不慣れな顔の小さな子供みたいな男でした。野蛮な男でしたがいい意味です。彼の放つオーラは常にポジティブでした。

楽しい時を過ごすためにここにいる
王者になるためにここにいる
人々を幸せにするためにここにいる
みんなを楽しませるためにここにいる

彼は自分がタレントであることを十分わかっていました。彼は人々に愛されたかっただけだとおもいますが、アンチも大勢いることをわかった上でそれを気にしていませんでした。ハメドは自分がどれほどの影響力があるかを完全に理解していました。」

ハメドが英国を席巻している頃、アメリカのニューヨーク、クイーンズのケビン・ケリーは自分が最高のフェザー級であると主張していた。47勝32KO1敗2分の記録、ハメドに負けない才能を持つ”フラッシング・フラッシュ”は、ゴーヨ・バルガス、トロイ・ドーシー、ヘスス・サルード、デリック・ゲイナーらを倒し快進撃を続けていた。

しかし当時フェザー級はHBOで熱心に扱われる階級ではなかった。それでもギャラが6桁(ドル)と低く抑えられていたためケリーは5回HBOで試合をした。

ケリー
「フェザー級だったので、HBOで対戦できるレベルの相手を探すのが困難でした。当時自分は45勝1敗とかでしたからなかなか相手が見つからなかった。なのでルー・ディベラにビッグマッチを懇願していました。」

ディベラ
「ケビン・ケリーは自己主張が強くビッグマウスで生意気でした。彼は自分を売り込むためにあらゆることをしました。スターになるつもり十分でした。「俺はデカいファイターよりも個性がある。どうして小さいボクサーをテレビで流さないんだ、俺たちはもっと面白い試合をする。もっとパンチを打つ。もっとアクションがあるんだ。」と。彼が自分のペンとTシャツを自作して売り込んできたのを覚えているよ。でもその強い想いが「ボクシングアフターダーク」を始める私のモチベーションになりました。それは軽量級のボクサーの扉を開く企画でした。ケビンがその功労者であったことを認めます。」

1984年、ケリーが別の扉を開いたのはずっと前の事だった。クイーンズのフラッシングにあるアスレチックジムの扉だ。

フィル・ボルジア(トレーナー)
「この子(ケビン)は本当に特別な才能だった。」

そしてそのデュオの絆はこの頃から切り離せないものとなった。

フィル・ボルジア
「もしケビン・ケリーが「ボクシングアフターダーク」で成功しなければこれからもフェザー級のボクサーが稼ぐことなどできないだろう。ウェルター級以下の試合にHBOが本腰を入れて取り組むのはサルバドール・サンチェス以来13年ぶりの事でした。」

ボルジアの言葉は事実とはわずかに違い、実際は11年前、1982年のルぺ・ピントールVSウィルフレド・ゴメス以来の事だった。しかし大筋では合っており、その時水面下で動いていたのがルー・ディベラであり、ハメドという才能の到来があったからだ。

ディベラ
「ハメドは事件(現象)でした。彼はダンスが出来、ラップ(おしゃべり)も出来る。彼のトークはモハメド・アリ以来聞いていなかったものです。下品で派手で自信過剰、そして野蛮、冷酷な野獣のごときパンチ、私はこの男を手に入れなければならなかった。この子をHBOに連れて行かねばなりませんでした。」

しかしそれには巨額の資金が必要だった。ケリーはハメド戦で45万ドルというキャリア最高のギャラを手にしたが、HBOはハメドと契約するために6試合1200万ドルを用意した。1試合200万ドル、当時のHBOのフェザー級のトップ選手の10倍近い額だった。

ディベラ
「契約は大変で非常に長い交渉でした。フレンドリーではありましたが本音はヒヤヒヤでした。派手なナイトクラブでローリング・ストーンズのロン・ウッドなんかが座っていて、ブラーかなんかのバンドが演奏していました。ナズが中に入ると皆びっくり仰天しました。それほど世界的に注目を集めるアラブの子供、カリスマ的なフェザー級だったのです。」

ケビン・ケリー
「ボクシング雑誌をみてハメドについて書かれた記事を読んだ。彼の記事ばかりだった。500万ドルって書かれていた。こいつをよく知らなきゃいけない、うそだろ!誰だこいつは?トム・ローフラーに電話してイギリスに行こう、他の誰かがハメドと戦う前に俺が戦うべきだ。そしてすぐイギリスに行きリングサイドに座った。そして対面さ。ハメドはアメリカで戦いたがっていた。「ケビン、王子の戦いを観に来たのかい」とハメドが言った、そうだアメリカで試合をしよう。ハメドと戦うためにその後もう一度イギリスに行った。イギリス人にこの試合が観たいとおもわせるために今度はリングにあがってジャンプした。口を閉ざしてたら食いたいものは食えない。(手に入らない)「Closed mouths don’t get fed」だから口を開けたんだ。ハメドも口を開けた。こうして手に入れたんだ。」

現在、ゲナディ・ゴロフキンのプロモーターとして知られるトム・ローフラーはハメドをアメリカに呼び出すために2度英国に飛び交渉を成立させた。ケビン・ケリーはハメドが必要としていた絶対的なキャリアを誇る確立された名前のファイターだった。これがハメドの記念すべきHBOデビューとなった。

ハメド
「出張先のアメリカを征服してやる。準備は出来ている。私が言った事は実現する。伝説になるつもりだ。私はグレートと運命づけられているのです。私が負ける姿がみたいと言う人がたくさんいます。しかし正直に言おう、私に打ち克つことは出来ない。自分の能力に絶対の自信がある。自信と神への信念を持って、勝利は揺るがない。打たれたり、ダウンすることはあるかもしれない。しかしそれは大きな問題ではない。最後に明確に勝つのは私です。」

ハメドはセルフプロデュースに長けていたが、マーケティングも壮大だった。1997年の11月、12月にニューヨークのマンハッタンにいた人であれば覚えているだろう。彼の顔(ポスター)は至る所にあった。この試合のマーケティングにHBOは7桁(ドル)の予算を使った。前例のないことではなかったが、フェザー級の試合でこれほど巨額が費やされるのはかつてない事だった。

ディベラ
「当時最先端の前衛的なファッション写真家を使って巨額の演出をしました。ケリーにかけた金額とは桁が違いました。」

ケビン・ケリー
「ハメドに巨額のマーケティング費用がかけられて少し裏切られたような気がしました。ボクサーとしてのメガファイト、みんなに興味をもってもらうために私は2度も英国に旅をしました。そしてハメドがアメリカにやってきた。俺とハメドを同列に扱って欲しい。ハメドだけをフューチャーしないでくれ。俺はニューヨーカーだ。ハメドは俺の街にきているんだ。イライラしたね。」

ケリーだけが不平等に悩まされたニューヨーカーではなかった。1997年夏、ポール・マリナッジはボクシングを始めたばかりのブルックリン出身の16歳の子供だった。彼は後に2度世界タイトルを獲得し、いくつかのネットワークで成功を収めることになるが、当時はただのボクシング素人のティーンエイジャーだった。ナシーム・ハメドVSケビン・ケリーこそポール・マリナッジの人生を変える運命の試合だった。

Vol.3へ続く・・・

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と、マリナッジ少年が登場したところでVol.2を終わります。

主役でない限り、必死で自分を売り込まないと生きていけないのがこの世界・・・
47勝32KO1敗2分こんな記録を持つケビン・ケリーも必死に出世を求めて食らいついていった。

ハメド
「人々はボクシングがビジネスだということを忘れている。大きなショービジネスなのです。私がやっているのはショービジネスです。だから私は試合ではジョークのように振舞うんです。ファンはそれを喜んで私の試合を観るためにお金を払う、もしくは私を憎み、私がノックアウトされるのがみたくてお金を払う。どちらにせよ、いいビジネスなのです。」

プロや・・・

https://www.youtube.com/watch?v=yu4wiezAzRw

https://www.youtube.com/watch?v=lLXcgZ84ndk

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