負けてもなお/イスラエル・バスケスVSラファエル・マルケス

通算2勝2敗
ライバルがいたからこそ、永遠のリング、ファイターになる。

イスラエル・バスケスはラファエル・マルケスとの再戦を忘れることはないだろう。

2度の世界スーパーバンタム級王者で、未来の殿堂入り王者のバスケスは、その輝かしいキャリアの中でも特にラファエル・マルケスとの4度にわたる死闘で鮮明に記憶されている。4試合は全てShowtimeで生放送され、最近再放送された。

バスケスは初戦で7回TKOでマルケスに敗れた試合の想い出を決して恥じてはいない。

バスケス
「マルケスがとても危険な相手で、恐るべきバンタム級王者であることはわかっていました。初戦はタフな試合でしたし、多くのファンが彼を応援していました。あの試合に負けた私はほぼ引退を決めていました。」

マルケスはバンタム級7連続防衛を含む15連勝中で、この試合に備えて階級を上げてきた。2007年3月、カリフォルニア州カーソンのホーム・デポ・センター(現ディグニティ・ヘルス・スポーツパーク)で行われた試合はバスケスの故郷であるハンティントンパークと、当時トレーニングしていたハリウッドのワイルドカードジムからわずか数マイルの場所だった。

バスケスのホームタウンであるにも関わらず、ファンはほとんどマルケスを応援していた。試合開始早々から壮絶な殴り合いを繰り広げ、両者共に顔面が腫れ上がってボロボロになり、ボクシング史に残る激闘となった。
バスケスは3ラウンドにダウンを奪ったが、鼻を痛め呼吸困難となり息を吸うのも苦しくなった。7回を終えて、バスケスは鼻の怪我の悪化を恐れ、棄権することが最善だと判断した。

バスケス
「このまま戦いを続けるのか、自分の鼻を救うのか決めねばなりませんでしたが、鼻を守ることを選びました。」

当時、息子のイスラエルJrと楽しい会話をしながら、それを最後のキャリアにしようと考えていたが、決断を先延ばしすることに決めた。

バスケス
「息子がどうしてパパは試合を棄権したんだ、続けていればアイツに勝てたのにといいました。だから鼻を治してやる気になりました。再戦に向けて今まで以上にハードなトレーニングをしました。」

家庭内での雑談と同時に、今後の最善策について検討し、バスケスはワイルドカードジムとフレディ・ローチの元から離れ、長年バスケスを指導してきたルディ・ペレスとチームを再結成した。

2007年8月4日、ラファエル・マルケスとのリベンジマッチが行われ、またしても初回から打ちつ打たれつの殴り合いが続き、初対戦時をさらに上回る激闘となった。6回に一気に攻め立てたバスケスがレフェリーストップのTKO勝ちでリベンジとタイトル奪回に成功。しかし、マルケス側は「レフェリーストップが早かった。まだ戦えた」と主張した。

2008年3月1日、ラファエル・マルケスとのラバーマッチに臨み、またしても初回から壮絶な試合となり、両者共にダウンを喫するなど3度目の対戦もまた激闘となった。11ラウンド終了時点でポイントではマルケスがわずかにリードしていたが、最終12ラウンドにバスケスがダウンを奪い、判定2-1で判定勝ちし、王座の防衛に成功した。

この試合は2年連続のリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された。

このシリーズの最初の3戦はあまりにも記憶に残るものだったため、ファンは冗談でも、懐かしさから、あるいは単なる尊敬と称賛から、カーソンの会場の前に2人の戦士の像を建てることをリクエストしたほどだ。

第3戦はバスケスにとって太陽の下での最後の偉大な瞬間だったが、それは彼が一番誇りにおもう記憶ではない。

バスケス
「初戦、最初にマルケスと戦ったあの試合こそ私の誇りです。負けたとはいえ、偉大なライバル関係が始まった試合だからです。あの初戦がなければ、私たちが共に分かち合った歴史はありません。」

その偉大な歴史を作るために、バスケスがキャリアを変更することを決意したことも。(初戦がなければ起きなかった)

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通算2勝2敗
ライバルがいたからこそ、永遠のリング、ファイターになる。

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