奉天洞のロッキーの途切れた夢/ゴンゾ(日本語で根性)池仁珍(チ・インジン)

「何をしてもいいけどボクシングだけはやめて欲しい。あまりにも険しい道なのに、その対価が低すぎます。」

当時の池仁珍は「韓国初の統一王者」という夢さえ持っていた。ハングリーさを持っていた。
今、夢さえみつけることが容易ではない韓国プロボクシングを一人で支えていくことが孤独にもみえた。

韓国が生み出した最後の世界王者が池仁珍(チ・インジン)だ。池は1973年7月18日、ソウルで生まれた。

小学生の頃から町内(ソウル奉天洞)では有名なやんちゃ坊主だった。ニックネームは「ゴンゾ(日本語で根性)」近所の大人がチョコパイを餌にケンカを煽ったりしたが、大人2人を相手にしても、やっつけてチョコパイを手に入れた。

進学した中学校にボクシング部があった。拳一つで入部した。


「当時憧れだった柳明佑先輩のようになりたいとおもった。」

中学、高校とボクシングを続け、少年体育典(中3)と国体(高2)で入賞した。
高校を卒業する時の進路は悩みに悩んだ。人気が下火になっていたボクシングでプロの道を目指すのか、大学に進学して体育教師を目指すのか・・・

家が裕福ではなかった池は悩んだ挙句プロの道を選んだ。

他のボクシングのヒーローがほとんどそうであるのとは違い、彼はデビュー戦でいきなり負けた。1991年のプロデビューは準備運動もせぬまま試合に臨み、2度のダウンを奪われて判定負け。


「成りあがっていい生活ができるなんておもえなかった。」

90年代はじめに父親が脳卒中で倒れ(2002年死亡)、母親が女手ひとつでクリーニング店で働き生計をたてた。
池は口減らしのためと決意し徴兵制度に従い入隊した。

服務中でも特別休暇をもらいボクシングを続け、勝利を重ねていった。
1994年3月26日には全韓国バンタム級タイトルを獲得。
1995年4月23日には空位のOPBFバンタム級タイトルも獲得した。

それでも生活は一向に改善しなかった。

除隊して階級をフェザー級にあげると同時に工事現場で働いた。日曜日が勤務日だ。


「ボクシングを続けるための日曜日、1日肉体労働をして稼いだお金で残りの6日間を過ごす生活でした。」

「1日労働6日ボクシング」の生活は、伝説の世界王者、エリック・モラレスに挑戦が決まるまで5年間続いた。

当時WBCフェザー級チャンピオンだったエリック・モラレスは池仁珍とのタイトルマッチまで40戦全勝、軽量級最強の一人と言われていた。90年代のボクシング不況で、韓国で試合が開催できない立場では池の勝利は絶望的といえた。敵地アメリカではモラレスをノックアウトしないと勝ち目はなかった。

2001年7月28日に初の世界タイトル戦、ロサンゼルスでエリック・モラレスに挑戦。モラレス圧勝予想の中善戦するも、12回判定で敗れてタイトル奪取ならず。池の予想外の健闘は大いに称えられ、12ラウンドを終えてモラレスの左目は敗者のように大きく腫れていた。

モラレス
「タフガイだった。ノックアウトできるだけのパンチを彼のアゴに見舞った。でも前に出るのをやめなかった。彼は強くてコンディションがよかったんだろう。」


「モラレスに負けてこれが最後だとおもった。」

期待以上のパフォーマンスをみせた池に再びチャンスが訪れた。2003年10月18日、イギリス、マンチェスターで35勝1敗のマイケル・ブロディと対戦。一度火が付けば爆発する脅威の連打で終始ブロディを追い詰め、顔面を血まみれにした。判定で池が勝利しブロディも敗北を認め池を称えた。

崔堯三以降王者不在だった韓国ボクシング界は敵地での世界王者誕生に沸いた。池はロッカールームで歓喜にむせび泣いたがそれはすぐに血の涙に変わる。WBCのホセ・スレイマン会長が、ジャッジにミスがあり引き分けに変更すると告げた。ミスを謝罪する代わりに名誉チャンピオンベルトが贈呈されたが何の意味もなかった。

翌2004年4月10日、ブロディとの再戦が組まれた。


「また、マンチェスターでした。敵地に向かう飛行機の中で今度こそ文句なしにノックアウトしてしまおうと誓いました。」

https://www.youtube.com/watch?v=ZvZGTUj_qOQ

誓い通りに7回にブロディを倒し遂に正真正銘の世界王者になった。アッパーが相手の鼻に突き刺さった瞬間を忘れない。

池は生まれてはじめて母に分厚い封筒を差し出した。しかし母は受け取らなかった。

「お前が稼いだお金だ。お前がとっておけ」

池仁珍の普段の体重は67kgだ。フェザー級(57.15キロ以下)に合わせるためには試合前3週間、一日一食、トレーニングは2倍する。

これまでの試合では怪我が絶えず、何度も骨折したり皮膚を縫ってきた。労働の対価として見合う仕事ではなかった。ブロディとの2試合で得た5000万ウォンがこれまで手にした最大のファイトマネーだった。王者としての防衛戦では7000万ウォンが保証されたが、マネージャーの取り分を抜くと半分も残らなかった。昔のチャンピオンはもっと稼ぎ、後援会の援助もあった。しかし今ではスポンサーもつかなくなった。

驚くことに池仁珍とマニー・パッキャオが戦う計画があった。当時のパッキャオは軽量級屈指のビッグネームだったが、後に8階級を制するほどのスターではなかった。エリック・モラレスと熱戦を繰り広げた池であればかなりの試合になると期待されたが、結局話はまとまらないまま空中分解した。

結婚した池は母親と暮らす家を出た。
しかし歩いて5分の距離である奉天洞の14坪の長屋で暮らしている。決して豊かではないが、楽天的な性格のおかげで心豊かだ。

子供の頃の「奉天洞のロッキー」の夢は世界チャンピオンになって近所を守ることだった。
その夢を果たした池だが、息子には絶対ボクシングをさせたくないという。


「何をしてもいいけどボクシングだけはやめて欲しい。あまりにも険しい道なのに、その対価が低すぎます。」

当時の池仁珍は「韓国初の統一王者」という夢さえ持っていた。ハングリーさを持っていた。今、夢さえみつけることが容易ではない韓国プロボクシングを一人で支えていくことが孤独にもみえた。


「ボクシングは今、がっかりするほど虚脱ですね。」

池仁珍は韓国ボクシングの最後のメジャーチャンピオンであり、最後の砦だった。

補足

韓国最後の希望であった池仁珍は2度の防衛に成功後、2006年1月29日、福岡で越本隆志に12回判定負けを喫し、王座陥落。

https://www.youtube.com/watch?v=iZYwvBo9G7A

池自身の言葉はないが、韓国の記事ではあまりに酷い地元判定であり、越本(コシモットーと書かれている)は王者に値しない弱者だったと猛烈な勢いで書かれていた。実際、越本はこれまた王者に値しないルディ・ロペスに7回TKO負け。半年で世界王座を手放し、池はロペスから易々と王座を奪還した事実があるので言い返す言葉もない。あまりに越本のことがひどく書かれていたので書く気が失せた。

その後2度目の世界フェザー級王座獲得後、拳の怪我のため2007年7月時点で防衛戦を行うことが出来なかったことを理由として、WBCからフェザー級世界王座を剥奪されそのまま引退となっているが、実際は低迷した韓国ボクシング界に試合を続ける交渉力も資金もなかったことが原因と言われている。続けていれば、次の相手はオスカー・ラリオスだった。

池仁珍は資金難だけでなく生活苦まで心配される状況だったという。資金難で日本のK1に参戦したりもしたが、崔龍洙と同様に良い思い出にはならなかったようだ。(K1でも約束の金が振り込まれなかったと崔龍洙と対談している。)

今ではジム経営をしているという。

31勝18KO3敗1分
WBCフェザー級王座を2度獲得(1回目防衛2、2回目負傷により防衛0剥奪)

デビュー戦とエリック・モラレスと越本にしか負けていない。
越本戦も疑惑が残るものと言えた。

どなたかのコメントに

池 仁珍もお願いします。
モラレスとの一戦は凄かった。
韓国では崔龍洙より評価が高いです。

というのがあったので書いたわけではないが、改めて振り返るとそうかもしれない。

韓国の偉大なファイターはほとんど韓国か日本限定で戦っていたのに対し、(ボクシング)経済が崩壊した池の頃はほとんどアウェーだった。当時40戦無敗のエリック・モラレスにロサンゼルスで激闘を演じ、2度もマンチェスターに渡り35勝1敗のマイケル・ブロディーから王座を奪取。3度目の防衛戦で福岡で越本に負け、最後は地元韓国でルディ・ロペスに勝って王座を奪還したまま引退。

当時、越本側も念願の世界戦でファイトマネー0円と言われていた。苦節の親子鷹、九州物語という感じで判定はあまりフェアではなかった気がする。

応援している選手と同じかそれ以上に相手にも大変な苦労がある。
そして大抵の場合、アウェーの選手の方により過酷な人生のストーリーがあるものだ。

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