日本では一番有名人かもしれないボクサーの具志堅用高は今のコミカルな姿と違いボクシングでは天才系だった。スピード、スキル、パワー、3拍子揃った芸術度の高いサウスポー、彼のキャリアがその後の日本人ボクサーの基礎となったといっても過言ではないのかもしれない。
少ないキャリアでの世界挑戦、日本国内限定、アジアや中南米選手主体の興行など・・・
そして今でも具志堅の13度の防衛記録を超えることは出来ていない。
やはり具志堅の完成度、総合力が一枚上なのだ。
具志堅用高は1970年代から80年代初頭にかけて、ジュニアフライ級の主役だった。4年5カ月に渡る統治でWBAのタイトルを13度防衛した。当時の世界記録だった。
具志堅は1955年6月26日に沖縄県石垣市(石垣島)で4人兄弟の一人として生まれた。異国情緒あふれる環境で育ったことが彼の人間形成に役立った。
具志堅
「家は貧乏でした。野原を走りまわり、海で魚や貝をとっていました。」高校時代にはじめて友人にボクシングを紹介された。
1973年には高校王者となり、62勝3敗という記録を残した。1974年5月、18歳の具志堅はすぐにプロデビューし2年半で8連勝を記録、WBA王者のファン・アントニオ・グスマンを日本に招聘し世界タイトルマッチを行う。
具志堅
「7回KOで勝てて自信になりました。スタミナとハートを鍛えるために一生懸命トレーニングしました。」「カンムリワシ」(Fierce Eagle)と言われる具志堅にとってそれは当然のことながらキャリアで最も誇り高き瞬間だった。
1977年、具志堅は元王者のハイメ・リオス、リゴベルト・マルカノをスプリットの判定でかわすが、両者との再戦ではノックアウトでケリをつけた。
ジュニアフライ級の絶対的王者としての地位を確立し、アルフォンソ・ロペス、ラファエル・ペドラサ、マルティン・バルガス、ペドロ・フローレスらを破った。
1981年、具志堅はペドロ・フローレスとの再戦に敗れわずか25歳で引退を表明した。調子は悪くなかったが、序盤でパンチが目に入り、目がよく見えなくなり、そのあとは記憶が無く、ダウンしたことも翌日の報道で知ったと言う。
具志堅
「眼に怪我をしていたのです。しかしそれ以上にボクシングで全てをやり遂げた達成感がありました。」13回という防衛記録を築いたが具志堅はもっと勝ち続けることを望んでいた。
具志堅
「少なくとも15回は防衛できたんじゃないかとおもいます。」23勝15KO1敗という記録を残し引退した具志堅は再びグローブをつけることはなかった。
1995年、白井・具志堅スポーツジムをオープン、白井は日本初の世界王者の白井義男だ。2003年白井の死後は具志堅がジムの管理を全て引き継いだ。
同郷の愛弟子、比嘉大吾が後に世界王者になった。
具志堅
「比嘉に出会えてとても嬉しい。彼はメンタルもフィジカルもとても強い。自分が出会った中では最強です。彼のような男をみつけるのは難しいでしょう。比嘉の成長が益々楽しみです。」とても短いプロキャリアだったが、その実績が評価され2015年には国際ボクシングの殿堂入りを果たした。
現在東京で妻と2人の子供と暮らす具志堅はTVのバラエティー番組やボクシングの解説など精力的にタレント活動をしている。
現役時代のライバルたちについて聞いた。
ベストジャブ ハイメ・リオス
彼のジャブは速くてリズミカルだった。いいジャブを食い、対抗するのが大変でした。
https://www.youtube.com/watch?v=pzIh-eKbRVg
ベストディフェンス リゴベルト・マルカノ
初戦で彼の弱点がみつからなかった。全ラウンドとても警戒していて隙がなかった。素晴らしいディフェンススキルでした。
ハンドスピード ハイメ・リオス
速いだけでなく意外な角度から飛んでくる。彼のパンチの出どころを予測するのは困難でした。
フットワーク ハイメ・リオス
彼には独特のリズム感がありました。身体がとても柔軟で予測不可能な動きをしてきました。パナマのボクサーというのはこの種の柔軟性がありますね。
ベストチン ラファエル・ペドラサ
アゴは固いしボディも頑丈で私のパンチは何の効果もありませんでした。
スマート リゴベルト・マルカノ
彼の対戦相手はパンチを当てることができませんでした。体幹がしっかりしていてバランスが良く動きに無駄がなかった。
屈強 ファン・アントニオ・グスマン
強靭な肉体とパワーでした。
ベストパンチャー アルフォンソ・ロペス
彼のパンチは効いた。元フライ級王者だったので私より少し大きかった。今までで一番効いた。ボディとコンビネーションが強かった。
ベストスキル ペドロ・フローレス
テクニカルで彼にジャブやストレートを当てきれなかった。
総合 ハイメ・リオス
彼には素晴らしいスピードがあった。フットワークもパンチも速かった。
このあたりになってくると何度かTVで試合を観たことはあるが、まだボクシングに夢中というわけではなかった。たまたまやっていて釘付けになる、それが具志堅のファイトだった。そんな子供でも、美しくて決め手があり強いな、カッコイイなとおもったものだ。一流だけが持つ決め手、爆発力があった。
ボクシングを詳しく知るようになると、ジュニアフライ級というのが当時新設階級で歴史がなく、相手の質にやや疑問が生じたりもした。具志堅の相手にビッグネームはおらず、具志堅戦後はみな落ち目になっていった。最後の相手、ペドロ・フローレスという選手も次に負け、王者たるレベルの男ではなかった。
しかしそれはリカルド・ロペスが置かれた状況と同じであり、具志堅の強さ、美しさとは別の話だろう。
記録では抜かれてしまったが、韓国の張正九や柳明佑よりもボクサーとしてのセンス、スケールは上だと確信する。
まだボクシングに夢を抱け、世界王者になれば家が建つ、タレントとして成功できる高度成長期が生んだスター。挫折なく階段を駆け上がるように駆け抜けた先にはもうモチベーションは残っていなかった。
24戦、在位後期は怪我や心身のコンディションがかなり限界だったのだろう。
25歳、これからの活躍が期待される井上尚弥より若くして、たった一度の敗北でリングを去った。
https://www.youtube.com/watch?v=_vtOGSdZ1gU
https://www.youtube.com/watch?v=clZyl62TscI
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