私がボクシングにのめり込んでいた時に最も輝いていた若手が鬼塚勝也だった。素直に強い、モノが違うとおもった。日本の同階級では背も抜き出て高く大人と子供のような試合に映ることも多かった。しかし元々虚弱体質でリーチが短くボクサー向きな少年ではなかったという。後に本当の世界の厳しさを教えてくれることになった。
鬼塚 勝也(おにづか かつや、1970年3月12日 - )は、日本の元プロボクサーで現在は画家として活躍中。福岡県北九州市出身。WBA世界スーパーフライ級王者として5度の防衛に成功した。愛称は「SPANKY(スパンキー)K」。
幼少期は身体も弱く喘息などでいつも苦しんでいた事もあり強さへの憧れが常にあった。小学校の時から拳一つで強さを証明するボクシングの世界チャンピオンを夢見るようになる。
中学生の時からボクシングジムに通い始め高校で豊国学園ボクシング部に入部。2年生時にインターハイ・ライトフライ級で優勝。3年時は川島郭志に敗北。春休み時に単身上京。 自らの足で東京都内のボクシングジムを回る。この時ヨネクラボクシングジムでスパーリングしてもらった相手が後の日本タイトルマッチに挑戦した中島俊一である。協栄ボクシングジムではスパーリングの相手をしたプロ選手を倒したのを見てトレーナーの古口哲がジムにスカウトする。高校生の時にはボクシング部の練習もしながらジム通いも続け休日には他校の練習にも参加するほど練習好きであった。
近畿大学への推薦が決まっていたが、井岡弘樹とのスパーリングなどを経て大学進学ではなくプロに行くことを決めた。
高校在学中にプロテスト合格。
一旦九州に戻り卒業式を終え18歳の誕生日に上京。4月18日フライ級でプロデビュー。1R KO勝で飾る。その後、プロテスト前から意気投合していた片岡鶴太郎がマネージャーとなる。当時世界タイトルマッチで日本に来ていた世界J・バンダム級チャンピオン ヒルベルト・ローマンと公開スパーリングの相手を務める。
1989年2月27日、2R KO勝ちで全日本新人王決定戦 新人王獲得(技能賞)
1990年5月22日、東洋チャンピオンと敵地で戦い7RTKO勝ちで世界ランク入り。その後初のロサンゼルスキャンプでIBFバンダム級チャンピオン オルランド・カニザレスやWBC・IBF統一ライトフライ級チャンピオン ウンベルト・ゴンザレス(通称:チキータ)のスパーリングパートナーを務める。
10月15日、日本スーパーフライ級王者・中島俊一に挑み、10RTKO勝ち。王座獲得に成功。その後、3度の防衛に成功。
1992年4月10日、WBA世界スーパーフライ級の王座決定戦でタイのタノムサク・シスボーベー相手に僅差な勝利で王座獲得。試合は明らかに鬼塚が劣勢で、試合後も笑顔がなかっただけに判定後相手選手が泣き崩れる事態が起き、物議を醸した。
このタイトルは伝説的な王者、カオサイ・ギャラクシーが19度の防衛成功の果てに引退、返上したものだった。
12月11日、2度目の防衛戦でランキング1位の指名挑戦者アルマンド・カストロ(メキシコ)と対戦。前王者のカオサイからダウンを奪ったこともある強打の挑戦者に初回、打ちおとすような右でぐらつくシーンもあったが打ち合いを好むチャレンジャーに接近戦を挑み打ち勝った。明らかに判定で上回っているにも関わらず激しく打ち合う姿は賞賛され、この試合は鬼塚のベストバウトとも言われている。
3度目の防衛戦。日本で「林小太郎」というリングネームで戦っていた林在新と対戦、鬼塚の楽勝が予想されていたが際どい勝負となりスプリットで勝利。ジャッジ2名の日本人が鬼塚を支持しており、露骨な地元判定と言われた。
以後、5度目の防衛戦に成功
6度目の防衛戦では1位の李炯哲と指名試合。1Rから一進一退の攻防が続き9R2分55秒、挑戦者の連打を浴びレフェリーストップで初黒星。試合の翌日に網膜剥離により引退を表明。
2年以上前から右目に異常をきたしていたが、引退を避けるため隠し続けていた。
生涯戦績
24勝17KO1敗ボクシング以外に自分に何が出来るのか自問自答する日々が続き、米国ロサンゼルスでは短い期間ではあったが保育士の助手としての経験もした。その時に子供たちに絵を描いて喜ばれたのをきっかけに絵画の世界に没頭するようになる。
1999年6月には地元・福岡市にボクシングジム「スパンキーK・セークリット・ボクシングホール」を開設。選手育成を主眼に置かないボクシングホールとして活動する。ホール内では本人が描いたアート作品などが飾られており海外のアトリエのような世界観を創っている。
海外記事がないので、日本と海外のWIKIを合わせたような内容になりました。
正直に言えば
タノムサクとの初戦
林在新
は鬼塚勝也の負け、もしくは引き分けがせいぜいだろう。当時、日本に世界王者は貴重で、鬼塚のような華のある選手は特に大事に守りたいという計らいがあったのだろう。鬼塚勝也という男には無敗という記録も大事だった。
世界レベルになると日本では倒し屋だった鬼塚もパンチの軽い判定型になった。
唯一のKOは日本の松村謙二だけ。
しかし、デビューからずっと鬼塚をみてきた自分の勘を頼りに言えば、世界を獲った時にはもう目に異常があったのではないか。ファイトスタイルが既に変わっていた。ロープに下がり貝のようにガードする選手ではなかった。
世界王者としては、カオサイを避けた戴冠であり、地元判定で優遇されたり、大した選手ではない李炯哲にベルトを奪われたり、疑惑の目でみられ中途半端な世界王者で終わってしまったが、これが日本の温室栽培とは違う世界の本当の厳しさである事を教えてくれた。
アルマンド・カストロ戦や松村謙二戦の圧倒的な内容を振り返れば、そこまで過保護にせずとも、晩年のカオサイ・ギャラクシーに引導を渡して王者になるくらいの実力者であったし、もっとエキサイティングな別の道もあったはずだとおもえてならない。
今おもうと海外志向が強い先鋭的な人間だった。
海外で伸びる、羽ばたく才能だったのかもしれない。
網膜剥離は仕方がないが、たった一度の敗北で引退はあまりに惜しい逸材だった。