バスケスは必勝という日本のハチマキをしていた。日本人の闘志を受け継いでいたのだ。これが、苦節のジャーニーマン、ウィルフレド・バスケスが上り詰めた究極の舞台だった。
日本にもなじみ深いファイターだが、結局日本人は誰も勝てなかった。ゴツイパンチ力、体力が違ったようだ。敗戦多きたたき上げの時を経て、オルランド・カニザレスやエロイ・ロハスに勝ったり、ハメド戦までこぎつけたり、やっぱりホンモノだった。
[st-card id=71798 ]ウィルフレド・ベニテス、ウィルフレド・ゴメス、ヘクター・カマチョ、フェリックス・トリニダード、ミゲル・コットなど華々しいプエルトリコのスターの陰で、ウィルフレド・バスケスは静かに彼の功績を築いた。目立つことなく・・・
最初はそんなに傑出したファイターではなかった。1981年のデビュー戦で負け、4戦目も引き分け、しかし初めての世界戦でミゲル”ハッピー”ロラに判定で敗れるまで彼は連勝を続けた。
1987年末、韓国で朴讃栄に挑み10回TKO勝ち。31戦目で初の世界王者に輝いた。しかし統治は短く、日本で六車卓也に引き分けた後、タイでカオコー・ギャラクシーに負けて王座を失った。元王者のラウル”ヒバロ”ペレスにも負け、イスラエル・コントラレスには初回でノックアウトされた。
この時点でバスケスのキャリアは終わりを迎えつつあったが、スーパーバンタム級に階級を上げ復活の狼煙をあげた。ラウル・ペレスとの再戦を3回KO勝ちでリベンジに成功すると、世界中を駆け巡り勝ち抜いていった。3年間でルイス・メンドサやオルランド・カニザレスなどのビッグネームを含む9度の防衛に成功し名声を獲得した。
https://www.youtube.com/watch?v=C4c_tmPVidk
21試合もの世界戦で16勝4敗1分という記録を残したが、世界戦で彼が地元のプエルトリコで戦ったのはアントニオ・セルメニョに敗れてスーパーバンタム級のタイトルを失った1試合だけだった。68戦のキャリアの中でプエルトリコで戦ったのは19戦だった。
フェザー級に上げて再起しWBA王者のエロイ・ロハスを撃沈、この試合で「ノックアウトオブジイヤー」を受賞した。それはまたバスケスがキャリアの中で最高の勝利であったと感じている試合でもあった。
バスケス
「エロイ・ロハスを破ってWBAだけで3階級制覇をしたプエルトリコ人は私だけです。」4度の防衛に成功したバスケスはキャリア最高の60万ドルというギャラでナシーム・ハメドと対戦。愚直に戦ったがハメドには通用しなかった。7回でストップされるまでに4度ダウンさせられた。2年のブランク後、復帰するも、ファン・ラスカーノにストップされその後引退を決意するまで4連勝した。
https://www.youtube.com/watch?v=Nd8GkxQgwCw
生涯戦績 56勝41KO9敗2分
WBA世界バンタム級王座(防衛1度)
WBA世界スーパーバンタム級王座(防衛9度)
WBA世界フェザー級王座(防衛4度)振返れば、4階級制覇をかけて、マニー・パッキャオと戦ってみたかったとバスケスは語った。
引退後彼は同名の息子ウィルフレドJrを世界王者に育てあげた。
現在バスケスは殿堂入りはしていないが、候補として挙がっている。ライバルについて
ベストスキル ナシーム・ハメド
エロイ・ロハスやラウル”ヒバロ”ペレスも上手かったけどハメドだな。あらゆる面でとても困難な相手だった。ロハスもヒバロもとても大きかった。
ベストジャブ エロイ・ロハス
背が高いボクサー型で固いジャブを持っていた。
ベストディフェンス オルランド・カニザレス
最も難しい勝利だった。彼はバンタム級王者として16回も防衛した名王者だった。
ベストチン 六車卓也
俺はありとあらゆるパンチを彼に浴びせた。
ベストパンチャー ナシーム・ハメド
明らかに彼だ。パワーもスピードもすごかった。
ハンドスピード ナシーム・ハメド
彼はとても速いファイターでした。
フットワーク ナシーム・ハメド
誰も真似できないように動くことができ、角度も他の奴とは全然違った。
スマート ナシーム・ハメド
完成され全てを持った男だった。スマートで速くてディフェンスもよく、パンチが強烈だった。
屈強 ロケ・カシアニ
熱いハートを持った男だった。
総合 ナシーム・ハメド
とても難解なファイターだ。速くてとらえどころがない。
先に紹介したオルランド・カニザレスとは逆に階級を上げてより良い結果を出した。井上尚弥と同様にパワーを生かせる体重がフィットした、各地で戦いそのキャリアが身を結んだ結果だろう。日本でも、六車、横田、葛西、渡辺雄二らが挑んだが、誰も勝てなかった。ほぼノックアウトでボコボコにされた。1発でもまともに食えば終わってしまう破壊力だった。エリートなキャリアでもなく、世界中呼べばどこにでも来てくれる、ファイトスタイルが普通でさほどスピードもないのが日本人に好まれたのかもしれない。
しかし内に秘めるパワーは別格だった。
パワーの数値だけなら井上尚弥に負けていないかもしれない。
カリスマヒーローの多いプエルトリコの世界王者の中ではバスケスは目立たず人気のない王者だったかもしれない。世界王者であってもトラックの運転手をしており、そのパワーの源は仕事と食事、魚しか食べない、(鳥のササミを少しだけ)という話をどこかで読んで真似をしたことがあるが、そんなパワーはつかなかった。(長続きしなかった。)
勝てなそうな大物を次々に倒してフェザー級まで手にしたが、最後は当時無敗の怪物ハメドの曲芸に散った。ハメド戦は密かにバスケスを応援しており、一発ブチかませばハメドでも倒れると期待していたが、その闘志は見事に空回りした。
この時のバスケスは必勝という日本のハチマキをしていた。
日本人の闘志を受け継いでいたのだ。
これが、苦節のジャーニーマン、ウィルフレド・バスケスが上り詰めた究極の舞台だと、とても興奮したのを覚えている。
強く逞しい親父さんだった。
今でも肥大化してないのはその質素な生活習慣故だろうか。