未完のストーリー/(The Viper毒ヘビ)バーノン・フォレスト

強盗に命を奪われ、突然この世を去ったバーノン・フォレスト。怪我や年齢など、フォレストのキャリアは晩年を迎えていたとおもうが、間違いなく、過小評価された普通ではない本格的な世界王者であり、もっと多くのビッグマッチ、ライバルとの試合が観たかった未完の大器だった。

1971年にジョージア州オーガスタでで生まれたバーノン・フォレストは、9歳でボクシングを始めた。才気に溢れ、1992年、バルセロナオリンピックに出場するなどアマチュアとして確かなる成功を収めた。アマチュア時代の戦績は225勝16敗という記録を残している。(コンスタンチン・ジューと戦った記録も)

ノーザンミシガン大学で経営学を勉強していたフォレストはオリンピック出場のために大学を辞めてまで夢を実現した。

オリンピックトライアルでは、未来のレジェンド、シェーン・モズリーを破った(彼らはプロで対戦する)にもかかわらず、バルセロナでは初戦で負けて手ぶらで帰国することになった。(食中毒を起こした)

1992年後半、プロに転向するとフォレストは自分自身のボクサーとしての可能性を探求し続けた。

一部の専門家はフォレストをシュガー・レイ・ロビンソンのようだと例えた。31連勝を記録したフォレストは2000年8月、空位のIBFウェルター級王座をラウル・フランクと争い、最初の世界タイトルを獲得した。

絶対的な王者としての地位を固めるべく、31歳のフォレストはIBF世界ウェルター王座を返上して2002年1月26日にWBC世界ウェルター級王者のシェーン・モズリーとのビッグマッチに臨んだ。

https://www.youtube.com/watch?v=nLPCFOg4VWk

アマチュア時代にモズリーに勝っているにも関わらず、フォレストはアンダードッグだった。

オスカー・デラホーヤにも勝って、プロとして38連勝無敗。2階級を制していたモズリーから何度もダウンを奪う圧勝でフォレストは世界をあっといわせた。モズリーはダウンの経験すらなかったが、完敗し、再戦でもフォレストだけには勝てなかった。

https://www.youtube.com/watch?v=jNmpY-SBd5M

しかし、注目されたフォレストは次の2試合を失うことになる。ワイルドなニカラグアのリカルド・マヨルガに3回TKO負けの番狂わせ。再戦は誰もがフォレストがミスを取り戻すとおもっていたがよもやの連敗を喫してしまう。

肩と肘に深刻な怪我を負っていたフォレストは2年のブランクを経て、スーパーウェルター級で再起した。2連勝後、2008年8月に偉大な元王者、アイク・クオーティーとの試合は物議を醸すものとなった。フォレストのビッグパンチを支持する者もいれば、クオーティーのジャブが試合を制したという者もいた。しかしこの試合を3-0のユナニマスで勝利したフォレストだが、35歳にしてまたも1年のブランクを作ることになった。

この時期に多くのファンはフォレストを忘れかけていた。

3戦のノンタイトル戦を勝利したフォレストは2007年7月28日に空位のWBC世界スーパーウェルター級王座をカルロス・バルドミール(アルゼンチン)と争い、これに勝利して2階級制覇を達成。ミケーレ・ピッチリーロ(イタリア)と対戦し、11回TKO勝ちでWBC世界スーパーウェルター級王座の初防衛を果たした。

https://www.youtube.com/watch?v=2W87LBjTxVE

半年後、自信過剰で練習不足なフォレストは、「コンテンダー」優勝者のセルジオ・モラによもやの判定負け。37歳になったフォレストはこれを反省し、コンディションを整え、モラとダイレクトリマッチで対戦し、3-0の判定勝ちで王座に返り咲いた。その後、肋骨負傷により戦線を離脱し、同王座は防衛することなく2009年5月21日に剥奪された。

フォレストはなんとかファンの評価を取り戻したが、その後二度と戦うことはなかった。

2009年7月25日夜23時頃、アメリカ合衆国ジョージア州アトランタのガソリンスタンドで愛車のジャガーのタイヤに空気を入れているところを2人の強盗に襲われ、所持していた拳銃で応戦し銃撃戦になるが射殺された。フォレストの11歳の息子、ゴッドソンは彼と一緒にいたが、コンビニに行って助かった。

フォレストには決して実現しなかった大きな戦いがあった。
ファンはいつも、バーノン・フォレストVSフロイド・メイウェザーを期待していた。

フロイド・メイウェザーはチェリーピッカーであり。49戦全勝という輝かしい記録を築く上で、とても賢明で狡猾であったことは何度も言われている。フロイドは確かにデラホーヤやモズリーに勝利したが、彼らがピークを過ぎるのを静かに待ち続けた。(The Viper毒ヘビ)がメイウェザーに与えたであろう問題はたくさんあったはずだ。

2007年以降、メイウェザーは、セーフティーファーストとなり、判定ばかりのファイターになった。フォレストが持っていたようなパワー、殺傷本能、破壊的なジャブはなかった。彼らが対戦すれば素晴らしい戦いになっていた事だろう。

メイウェザーは彼の時代において最も賢く、思慮深いファイターとして賞賛に値するが、最高ではなかった。厳しい試合、試練、究極の試合、少なくとも、フォレストとリングを共有するようなリスキーな戦いはメイウェザーの履歴書には欠落している。フォレストはモズリーを倒すことでメイウェザーに逃げられてしまったのだろうか。

いずれにしても、バーノン・フォレストVSフロイド・メイウェザーには多くの議論の余地があることだけは間違いない。

シェーン・モズリー

「理由はわからない。多分それは自然だった。フォレストはただ激しく私を殴った。途方もないパワーとジャブを持っていた。私は打たれ強く一度も倒された事がない。最高のパンチャーはバーノン・フォレストと言わねばならない。」

バーノン・フォレスト補足

フォレストは精神障碍者を支援するグループホーム、デステニーズ・チャイルドの活動などに積極的だった。ボクサー以外の仕事を全てこの慈善事業に捧げた。

フォレストを襲った3人の強盗は逮捕された。
Jquante Crews(25歳)、DeMario Ware(20歳)、Charman Sinkfield(30歳)

検察は死刑を要求したが、フォレストの家族はそれを求めなかった。

「バーノンを殺す必要はなかった。あななたちがすべきはバーノンに道を尋ねることくらいだ。」

しかし犯人たちは前科5犯の重犯罪者であり容赦なき裁きを受けることになる。

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