ナシーム・ハメドストーリーの壮大なる名脇役に甘んじてしまったケビン・ケリーだが、ボクシングの歴史の中で、こういう立場を演じる男は必ずいる。今でいうとゲイリー・ラッセルJrのような存在か。リスキーで誰も相手にしてくれず、かといって大きな相手に挑むも跳ね返され、やがてピークを過ぎると次世代のスターの踏み台と化していく・・・
しかしハメドとの邂逅があった分ケリーは幸せだ。
そして前も後も、強者と戦い続けたそのキャリアは永遠の勲章だ。
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ケビン・ケリーはオールアクションスタイルで多くのノックアウトを演じてきた。彼は典型的なニューヨークスタイルで知られ、素晴らしい試合を量産してきた。
ケリーは優秀なアマチュアだったが1988年の五輪予選の最終選考に落ちた。
ケリー
「アマチュアでは70勝5敗で数々のトーナメントに勝ってきた。五輪に行くつもりだったが計量でミスをした。フェザー級でやり直して準決勝でカール・ダニエルズに3-2で負けた。(ダニエルズはジュニアミドル級の世界王者になる)でも試合では俺が2度もダウンを奪ったんだ。アマチュアの政治に嫌気がさしてプロになった。だからアマでは4年間しかやっていないんだ。」アマチュアでのフラストレーションをケリーはプロではらしていった。
ケリー
「俺がノックアウトにこだわっていたのはジャッジが信用できなかったからさ。俺のキャリアでジャッジに委ねた試合はない。運命をジャッジに委ねるなんて御免だ。」プロでケリーの快進撃は続いた。
ケリー
「1年間に12試合から14試合やった。1週間に2度戦ったこともある。(実際は最大で年間10試合であり、週に2度戦った記録はない)」レジリオ・ツール(元130ポンドの世界王者)がマネージャーだったのでケリーはツールの母国であるオランダやヨーロッパでも多く戦った。
36連勝のうち、元王者のトロイ・ドーシーやヘスス・ポールと戦った試合が最もタフなもののひとつだったと言う。(両者合わせて2806発のパンチを打ち合ったという)
マービン・ハグラーのようにケリーはフェザー級で無冠の帝王の状態だった。2年間ランキング1位にも関わらずなかなか世界挑戦できなかった。
ケリー
「サウスポーでスピードとパワーがあるから敬遠されたんだ。ここでもボクシングの政治を感じたよ。でも必ずチャンスは訪れると信じていた。」1993年、遂にチャンスはやってきた。WBCフェザー級王者、グレゴリオ”ゴーヨ”バルガスに挑戦しタイトルを獲得した。
ケリー
「あの時は俺は無敵だとおもっていた。俺はハンターだったから相手がベルトを持っていることが重要だった。どんな王者でも俺と戦えばベルトを失うことになると。世界王者になれてホッとした。遂に王者になれた。個人的には遅すぎたとおもう。(37戦目)」2度の防衛と2度のノンタイトルを経て、1995年アレハンドロ”コブリータ”ゴンザレスに敗れてタイトルを失う。10回にケリーは目の負傷で棄権した。
ケリー
「コブリータはろくに防衛できなかったからそんなにいいファイターじゃなかったとおもう。41勝無敗で王者になるまでの道のりが長くて、俺はもう疲れていた。1年間以上の休養が必要だった。14年近く戦ってきてフラストレーションがたまっていた。トム・ジョンソンやエロイ・ロハスとのビッグマッチが欲しかった。それが実現しなくてモチベーションが下がっていたんだ。決して負けたくはなかったけど負けた以上這い上がるしかなかった。」その後3年の間にケリーはボーン・アダムスと引き分けたり、元王者のルーイ・エスピノサやヘスス・サルードを下した。その中には後の世界王者、デリック・ゲイナーに対する勝利などがあった。
https://www.youtube.com/watch?v=_U-S7q_z3KU
その後、ケリーは運命のライバルであるナシーム・ハメドと出会う。
ケリー
「俺がハメドとやるためにイギリスに行ったことを誰も知らないだろう。当時アメリカでほぼ全ての相手を倒してきた。47勝1敗くらいだった。雑誌でハメドをみて、なぜ俺と戦わないのかとおもった。イギリスに飛んで交渉したが、フランク・ウォーレンはハメドは既に母国で大成功しているので俺との試合など必要ないと言われた。稼いでいるならそれは理解できるよ。でもハメド自身がアメリカ進出を希望していたからもう一回イギリスにいって交渉したんだ。アメリカでベストな試合をしようと。」2人は記者会見で敵意をむきだしにし、大いに盛り上げ、1997年クリスマス直前に激突、試合は期待を裏切らなかった。互いに3度ダウンする大熱戦となった。4回にケリーがストップされる直前までケリーは勝利を信じていた。
[st-card id=72680 ]ケリー
「俺の犯した間違いはノックアウトにこだわりすぎたことだ。そしてノックアウトは結局俺に訪れた。」ハメドは後に殿堂入りを果たすが、ケリーはライバルの殿堂入りを素直に喜んだ。
ケリー
「とても嬉しかった。ハメドを祝福したい。でも正直俺より先に殿堂入りするなんてショックだった。彼より早くプロになっていたし彼より長くプロを続けた。ハメドがはじめて負けた時、誰もがいつ復帰するのか期待していた。復帰後の活躍が評価の鍵だとおもった。でも彼は1度だけ戦って引退してしまった。」対照的にケリーはその後10年以上戦い続けたが、最良の日々は既に過ぎ去っていた。しかし常に強者と戦い続けた。エリック・モラレス、ウンベルト・ソト(ケリーの勝利)、マルコ・アントニオ・バレラ・・
2009年、オリンピアンのビセンテ・エスコベドに敗北し、60勝39KO10敗2分の記録を残し長きに渡るキャリアのカーテンの幕を下ろした。
ライバルについて
ベストスキル デリック・ゲイナー
背が高く、サウスポーでとてもスキルフルだった。その利点を生かす方法をよく知っていた。彼が最高のアウトボクサーだった。
ベストジャブ デリック・ゲイナー
とても背が高くて固いジャブを持っていた。左対左になると彼は右側に動くが、俺の利点を完璧に無効化した。ハメドもそうだけど彼は2番手だな。ゲイナーが一番だ。背が高く、遠くてリーチも長かった。
ベストディフェンス デリック・ゲイナー
俺は皆殴ってきたが、当てるのが一番難しかったのはゲイナーだ。ハメドは手を下げていたので当てるのは難しくなかった。かなり痛めつけたはずだ。ほとんどの相手にパンチを当てるのは難しくなかった。当て方をみつけていった。でもゲイナーは大変だった。長い距離で動き回るしホールディングがきつかった。
ベストチン トロイ・ドーシー
どんなに強くあらゆるパンチで殴っても彼は倒れなかった。彼は多くのファイターと戦った。みんな彼の打たれ強さが印象的だったはずだ。デラホーヤでさえそう言うだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=FQ0ztVbCivM
ベストパンチャー グレゴリオ”ゴーヨ”バルガス
すごいハードパンチャーだった。俺の腕を殴ってきたけど骨まで響いた。フロイド・メイウェザーがゴーヨと戦う時「お前が今まで戦ってきたヤツで一番パワーがあるぞと」伝えた。すると当時のメイウェザーは「わかった。奴は破壊的だね。」結局ゴーヨのパワーは説明不可能だった。筋肉から定義できるものではなかったが、クレイジーなパンチ力だった。
ハメドも強打者だったしバレラもハードパンチャーだった。モラレスは彼らに比べたらそれほどでもなかった。でもゴーヨのパンチは異次元だった。パンチ力っていうのは一種の知覚なんだ。ハメドさえゴーヨほどではなかった。」
ハンドスピード ナシーム・ハメド
プリンスとゲイナーだろうけどハメドに軍配だ。ハメドは俺に似たところが多くてスピードに加えてスナッピーだった。動いたり止まったり、多くの流れの中で素早くて柔軟なので本当に慎重さを強いられる。「どうやって自分自身に勝つんだ」という気持ちだった。ゲイナーもハンドスピードがあった。俺自身がそういうタイプだったので相手にスピードをあまり感じなかったけど、ゲイナーとハメドは速かった。
フットワーク デリック・ゲイナー
スモーク(ゲイナー)とプリンス(ハメド)が同レベルだ。ゲイナーはアウトボクサーでインファイトを好まない。ハメドはインサイドファイトも厭わない。きっとサイズの違いだろうね。
スマート エリック・モラレス
モラレスはスマートだったとおもう。彼は自分の決定的な瞬間を狙う方法を知っていた。バレラもまたクレバーだった。俺が強敵だとわかっていたから決して無茶をしてこなかった。彼らとピークを過ぎた時に戦ったことを決して後悔しないが、全盛期だったらもっといいファイトができたようにおもう。当時はもはや俺は理想のフェザー級ではなかった。俺が彼らの道を切り開いたようなものさ。
https://www.youtube.com/watch?v=Rho8T6QDh7Y
屈強 グレゴリオ”ゴーヨ”バルガス
グレゴリオ”ゴーヨ”バルガスだね。まるで固い岩のようだった。ロベルト・デュランみたいなものさ。決して彼をパワーで凌駕できない。スマートにアウトボックスするしかない。
総合
誰がベストであるとは決められない。全てのファイターは皆違う。相手に合わせて自分をカスタマイズしなければならない。みんなそれぞれ個性、強みを持っている。そんな彼らが俺を成長させ、学習させ、俺のボクシングを形成していったんだ。
ベストファイターはいない。なぜなら皆違うから。
ハメドはノーガードですごい身体能力でサウスポーでパンチャーで様々なアングルで打てる。
ゲイナーはアウトボクサーのジャバーでスリックな奴だった。良く動き同じ場所には決していない。
ドーシーは驚異的な打たれ強さだった。打たれても打たれても突進してきた。
ヘスス・サルードも俺のパンチに対処してとても上手く立ち向かってきた。王者というのは王者たる理由があるんだ。彼らの強みを理解してそれを中和、解決する方法を見出していくんだ。ハメドは多かれ少なかれ、俺を患者にしてしまった。勝ち負けの差は忍耐だ。忍耐できなかった試合で俺は負けた。俺がサイコロを振って(賭けに出て)ハメドが勝者になった。トレーナーは我慢しろと言ったが俺は忍耐できず勝負に出てしまった。
プライドと後悔がにじみ出ているインタビューですが
アマチュアの頃から辛酸をなめてきて「ジャッジに委ねない」ノックアウトの心情が身に沁みついていたのだろう。
プライド高き王者は総合を選べないのはエリック・モラレスも同様でしたが、デリック・ゲイナーやゴーヨ・バルガスへのリスペクトが興味深かったです。結局冗舌に長く語るファイターが一番の想い出なのではないだろうか。
メキシコ軽量級のエリートといえば
バレラ、モラレス、マルケスの3人が代名詞ですが、その少し前にいた
グレゴリオ”ゴーヨ”バルガス
アレハンドロ”コブリータ”ゴンザレス
なども強烈でした。やばいのが出てきたよ、日本人の関与しない団体でと怯えたものだ。相性や運もあって3人衆より名前は残せなかったが、才能では負けていなかったかもしれません。デリック・ゲイナーというのも、懐かしいな、とても難解なパンチャーだったな・・・