いつものレジェンドインタビューはないが、残すべきものは残しておく。ボクシングの歴史の中では何年、何十年かに一度は”モンスター”が現れる。日本しか選択肢がなかった、日本に来たから成功できた。しかしその才能はそんなものではなかった。
ユーリ・アルバチャコフは、最も過小評価された90年代のファイターだ。その理由はほとんどのキャリアを日本で送ったためであるとされている。それは彼の国ではなかった。
プロボクシングが不可能だったソ連を離れ、ペレストロイカ政策の一貫で日本にやってきたユーリはそのスキルとエキサイティングなスタイルで瞬く間に日本のファンを虜にした。チャコフ・ユーリという名前でデビューした彼は日本の世界王者の名前にちなんでユーリ海老原というリングネームをつけられた。
ユーリ・ヤコブレビッチ・アルバチャコフは1966年10月22日にロシアのケメロヴォ州タシュタゴル出身のアジア系ロシア人として生まれた。1989年にはモスクワで世界フライ級のアマチュア選手権に勝ち、同年ヨーロッパ選手権、世界選手権を制した。
https://www.youtube.com/watch?v=_vawcBTd6G8
1990年に5人のソビエトボクサーと共に日本の協栄ジムと契約、デビュー年の7月には初回KOで日本フライ級王座を獲得した。12連勝の後、1992年にタイのムアンチャイ・キティカセムを8回KOで下しロシア発のプロの世界王者に輝いた。
Ebiharaがロシア語で「ファック」を意味する単語「Ebi」を連想させたので、ユーリ・アルバチャコフに再び改名、「勇利アルバチャコフ」
1996年8月26日、9度目の防衛戦で5年前に対戦することが出来なかった渡久地と対戦(渡久地は本名の「渡久地隆人」としてリングに上がった)。9回TKO勝ちを収めるも、右手中指を骨折。試合内容からは想定できないほどの長期間の休養を余儀なくされる。なお、この試合は同年の年間最高試合に選ばれた(勇利にとっては3度目の同賞受賞)。
1997年11月12日、1年以上のブランクを経ての10度目の防衛戦。勇利の休養中に暫定王者となったチャッチャイ・ダッチボーイジム(タイ)との統一戦を行う。両者は1995年9月25日にも対戦しており、この時は勇利が12回判定勝ちを収め、7度目の防衛に成功した。2年ぶりの再戦となったこの試合は反対にチャッチャイの12回判定勝ち。2年前の雪辱を許す形となった。
慢性的な拳の怪我とモチベーションの低下、長いレイオフが彼からボクシングへの情熱を奪った。
世界王座陥落後、勇利は「アマチュア時代から20年近くも戦ってきた。もう疲れた。もうたくさんだ」とコメント。チャッチャイ戦後、一時は復帰も噂されたが、右ストレートを強打するがゆえに右拳を慢性的に故障していることもあり、結局この試合を最後に現役を引退。1999年2月、後楽園ホールで引退式を行った。
生涯戦績23勝16KO1敗。
同僚で同時期に日本で活躍したオルズベック・ナザロフと同様、怪我によってキャリアを損ねただけで、それさえなければ無敵のようにおもわれた。
現在はロシアに帰国し、サンクトペテルブルクに居住している。出身地ケメロヴォ州では彼は伝説的な英雄となり、毎年彼の名を冠したアマチュアボクシング大会が行われている。
ユーリに関する何かがないかなぁとおもって探したが、目ぼしいものを探すことができなかった。ロシア語のGoogleとかなら探せそうだが・・・
多くを語るまい、彼もまた過小評価されたモンスターだった。
大好きだった。ビッグマッチがみたかった。
遠くアフリカとフランスで栄光と挫折に遭遇したオルズベック・ナザロフや、遂に世界王者になれずに消えたスラフ・ヤノフスキーなどについても、いつか書いてみたい。
ヤノフスキーはすごい時代のすごい階級のオリンピック金メダリストだったらしい。アメリカの誰も敵わない、キューバだらけの脅威の時代に頂点に立ったスーパーテクニシャン。でも、プロになるには少々歳をとりすぎていた。
https://www.youtube.com/watch?v=OvHuRGE5Kww