日本人にもお馴染みのと書いて、相手をしたのは日本人ではなくユーリだけだったのだな。(最後の余計な試合を除いて)そしてこんなに短く駆け抜けた王者であったのだ。ユーリだから勝てたのであって他の日本人には無理だったであろう。バンザイ王子というのは私がつけたニックネームです。
ダウンするといつも両手をバンザイし、大の字、痛いよう、効いたよぅとわかりやすいリアクションをするのが鮮明に焼き付いているからです。内山に負けたジョムトーンもバンザイ王子してたっけな。
そんな負けっぷりが印象的なムアンチャイだが、早熟の天才、かなり強かったのは間違いない。
ムアンチャイ・キティカセムは短いプロキャリアで多くを成し遂げた。タイで2階級制覇した最初のファイターだ。しかしその短いキャリアは山あり谷あり、オールアクション満載だった。
ムアンチャイは流れ星のようだった。
最高の瞬間、彼は壮観だった。しかしそれ以外の時、彼のパフォーマンスはかなり落ちた。1968年11月、首都バンコクから北へ数時間のところにある小さな町、チャイナート県でムアンチャイは生まれた。
ムアンチャイ
「とても貧乏でロクに食べる事が出来ませんでした。家族全員で1日3ドルしか稼ぎがなかったので、私はムエタイからボクシングに転向しました。」ムアンチャイは40~50戦のムエタイキャリアがある。ムエタイでは115ポンドで戦っていたが、少しでも有利にするため、ボクシングでは108ポンドに落とした。当初はタイの伝説的ボクサー、ソット・チタラダと一緒にトレーニングを積んだ。
1988年プロデビュー。たった6連勝で、IBF世界ライトフライ級王者タシー・マカロス(フィリピン)に挑み、12回判定勝ち。無敗の世界王者に輝いた。以後、3度の防衛に成功。
1990年7月29日、4度目の防衛戦。米国・アリゾナ州フェニックスでマイケル・カルバハル(米国)と対戦。7回TKO負けで王座から陥落しプロ初黒星。
オリンピック銀メダリストのエリートに激しく奮闘したが、減量苦が限界だった。アメリカに行くために15000ドルかかったが、一文無しになって帰国することになった。
1991年2月15日、2階級制覇を懸けての世界再挑戦。同国人のWBC世界フライ級王者ソット・チタラダに挑み、6回TKO勝ち。2階級制覇に成功。
1991年5月18日、初防衛戦。敵地で元WBC世界ジュニアフライ級王者(15度防衛)張正九(韓国)と対戦
熱狂的なハイペースで打ち合った両者、張が5回にムアンチャイを2度ダウンさせ、11回にもダウンを追加、ラストラウンドにドラマが待っていた。それまでのスコアを見直すとドローとなっていた。ムアンチャイは疲れ切った張をダウンさせ、2度目のダウンでレフリーは即試合を止めた。
ムアンチャイ
「あれはイージーファイトです。張はただ忙しいだけでスキルフルではなかった。イージーファイト。あの頃の私はよく訓練されていました。」1992年2月28日、3度目の防衛戦でチタラダと再戦し、9回TKO勝ち。
1992年6月23日、4度目の防衛戦は初の日本での試合。両国国技館でユーリ海老原と対戦。8回KO負けとなり王座から陥落。なお、この試合はJBC等の主催する年間表彰において年間最高試合賞に選ばれている。
1993年3月20日、雪辱・王座返り咲きを懸け、母国タイのロッブリーでユーリと再戦するも、9回TKO負けで王座返り咲きに失敗。前年に引き続き、この試合もJBC年間最高試合賞に選ばれた。この試合では第7ラウンドにムアンチャイがダウンし、その後もユーリが攻勢をかけている時に終了ゴングが30秒も早く鳴らされるなどムアンチャイ側に有利な工作があったことをボクシングマガジンが報じている。
その後、1994年は1試合も行わず。1995年は2試合、1996年は1試合を行ったが、以降は再び長期間試合から遠ざかる。
1999年2月22日、2年9か月ぶりの試合で仲里繁と対戦し、4回TKO負け。結局、この試合を最後に引退した。
25勝17ko4敗
ムアンチャイによると彼のキャリアはチームの努力によってもたらされたものであり、そんな彼らと栄誉を分かち合えたことを誇りにおもっている。
ムアンチャイ
「チーム全員に感謝したい。プロモーター、マネージャー、サポーター、100%の力でやりきったので後悔は何ひとつありません。」ムアンチャイは結婚して2人の子供がいるが後に離婚している。2011年まで自動車販売店をしていたが洪水被害にあい廃業。今は小さな建設会社を経営しチャイナート県の地区の市長を務めている。ボクシングには関わっていないが、ゲストとして試合に呼ばれることもある。
ライバルについて
ベストジャブ ソット・チタラダ
彼はジャブだけで多くの戦いに勝ってきた。武器である右ストレート、アッパーを生かすためのジャブだった。当てるためと距離を測るために使い分けることができた。とても速くて正確でパワフル、相手の目を腫らしたりカットするので有名だった。
ベストディフェンス アルベルト・ヒメネス
いいリズムで動き回った。彼はアーティストだ。スパイダーマンのようで当てるのが難しかった。
ハンドスピード マイケル・カルバハル
右も左も速くてパワフルだった。どんな試合でも8連打のコンビネーションを打っていた。すごいスタミナがあり5秒で8連打のコンビを2回打つ。
フットワーク ユーリ・アルバチャコフ
彼のスナッピーなパンチとフットワークには戸惑った。彼のパンチは燃えていた。とても速いファイヤーパンチだった。
ベストチン ユーリ・アルバチャコフ
私も彼に多くのパンチを当てたけどどこも傷ついていないようだった。どうやって鍛えたらそんな風になれるのか不思議だった。
スマート ソット・チタラダ
インテリジェントなファイターだ。彼はカウンターパンチを打たないけどカウンターコンビネーションを打ってくる。パンチのタイミングを計るのが上手くて相手と適切な距離を作る名人だった。
屈強 マイケル・カルバハル
後半になってもとても強い。すごい積極的だった。
ベストパンチャー マイケル・カルバハル
ターゲットに対して正確でいいコンビネーションを打つことができる。彼はデンジャラスな男だ。
ベストスキル マイケル・カルバハル
とてもスムーズで高い技術をもっていた。
総合 マイケル・カルバハル
全てにおいてベストは誰だったかを振り返ると、彼だね。
かつて読んでお蔵入りしていたのは、カルバハルばかり持ち上げて、2度も完敗したユーリの評価が低いと感じたからでありますが
しっかり読むと
His hands are blazing. He had rapid-fire hands
彼のパンチは燃えていた。とても速いファイヤーパンチだった。
この一言だけで最大級の賛辞ですね。
さらにベストチンにもあげており、当てても効いた顔ひとつださないのはユーリが氷の国のエスキモーの末裔、憂いを湛えた悲しき戦士だったからだろう。表情に出さないのだ。方やムアンチャイは表情や、ダウンシーンをみればどんな気持ちなのかが一目でわかる子供っぽい王者でした。
少ないキャリアで王者となり、カルバハル、張、チタラダ、ユーリらと戦い、張やチタラダを凌駕してしまうのは驚異的な天才の証。アジアでは当時ナンバーワンのフライ級だったといえる。そしてキャリアを大事にしていればもっと長く活躍できたかもしれない。
それでも、太く短い、一瞬の流れ星のような活躍がバンザイ王子には似合っていたのだろう。
最強インタビューは完敗した相手よりも死闘を演じた相手を高評価する印象が強い。俺と打ち合って上回ったという試合の実感、手ごたえ、思い出がそうさせるのだろう。