前回書いたキューバの最高傑作、エクトール・ビネントは悲劇の物語だが、カサマヨールとともに亡命したもう一人の男がいた。ビネントとは同郷でライバルだったその男はビネントには勝てず補欠のような存在だったが、強い決意を胸に、アメリカの地で苦労の果てに世界王者の夢を実現した。
キューバのアマチュアボクシングシステムは最高レベルの1つだ。
何十年もの間、アマチュアボクシング界を席巻し最高のテクニシャン、ディフェンスマスターを輩出してきた。しかし共産主義によりプロボクシングは禁止されている。多くの偉大なキューバのボクサーはプロとして戦うために亡命という厳しい決断を迫られる。1990年代後半、フロリダ州マイアミで10人のキューバボクサーのチームが結成され、彼らは自分たちの事を「Team Freedom」と呼んだ。「Team Freedom」で最も成功したファイターはホエル・カサマヨールだったが、多くの人が忘れている中にもう一人別の名前があった。それが元ジュニアウェルター級王者のディオスベリス・ウルタドだ。
ウルタドはスピード、テクニックに優れた背の高い滑らかなオーソドックスだった。サンチャゴで生まれ育ち、キューバ代表メンバーとして221勝20敗のアマチュア記録を持っていた。
より良い生活とプロボクサーとしてのキャリアを切望していた彼はアメリカに亡命するという困難な決断を下し、家族をキューバに残した。フロリダ州マイアミに移動し1994年12月にプロデビュー。20連勝14KOの快進撃を続け、レジェンド、4階級王者の"Sweet Pea"パーネル・ウィテカーへの世界挑戦権を掴んだ。
1997年1月24日、ニュージャージー州アトランティックシティ
ウィテカーは次戦でオスカー・デラホーヤとのスーパーファイトが予定されており、その為にもウルタド戦は絶対に負けられない試合だった。https://www.youtube.com/watch?v=-QL8B38bars
182センチの長身、ウルタドは初回と5回にウィテカーからダウンを奪取、しかも9回には後ろを向いていた際にパンチを貰いウィテカーから減点。ポイント的にウィテカーは苦境に立たされた。
もうKOするしか勝ちがないウィテカーは11Rに勝負をかけた。ウィテカーが放った左がカウンターとなり形勢は一気に逆転。ウルタドが棒立ちになり防御もとれなくなった所に、更にウィテカーが左だけの連打をこれでもかと言うくらい浴びせロープ外にウルタドを叩き出した。この姿を見たレフェリーは試合をストップ。
ストップされるまでのポイントは全てウルタドがリード。
あと少し、5分間生き残ればウルタドは歴史を変える男になっていた。初黒星を糧に5カ月後に再起したウルタドは6連勝を飾り、またもや後のレジェンドとなるコンスタンチン・ジューと空位の王座を争う。
1998年、11月28日、カリフォルニア州インディオのファンタジースプリングスカジノの屋外アリーナ。
ジューは本来、この王座をミゲル・アンヘル・ゴンザレスと争う予定だったが、ゴンザレスの負傷で急遽ウルタドに変更された。ウルタドはこの知らせを10日前に受けただけで、わずか15日前の11月13日に試合をしたばかりだった。初回から強打のジューが襲い掛かりウルタドからダウンを奪うも、仕留めにかかるジューを捉えてウルタドがダウンを奪い返す。さらにもう一度ジューからダウンを奪ってみせ、エキサイティングなオープニングラウンドとなった。
アクション満載の激しい攻防、ジューのハードショットにウルタドは上手く対抗しジューの右目は大きく腫れた。しかしウルタドにはロープに背を向けるという悪いクセがあり、そこを狙い打たれた。ジューは前進を続けウルタドのボディを痛めつけ、5回に2度ダウンを奪取、無念のレフリーストップとなった。
2度の世界戦に失敗したウルタドは再起し3年間で6連勝を記録、3度目の正直、ハードヒッターのランドール・ベイリーと空位のWBAスーパーライト級王座を争った。
2002年5月11日、プエルトリコ、サンファンで争われた試合は2回にウルタドが右カウンターでベイリーからダウンを奪取。6回、ベイリーは強烈な右でウルタドからダウンを奪い返す。続く7回、ウルタドはボディでベイリーを倒し返し決着。
遂に、8年の歳月を経てウルタドは世界王者に輝いた。
(コーナーではシュガー・レイ・レナードもウルタドを祝福している。)7か月後の初防衛戦で、ビビアン・ハリスに2回TKO負けし、ウルタドの王座は短いものになってしまったが、夢を追い続けたウルタドの執念は報われた。
その後も2004年に引退するまで3試合全て勝利、2007年に現役復帰し5連勝を飾り、ローカル王座を獲得、勝ったまま2011年、正式に引退した。
プロとしての戦績は43勝26KO3敗1分。
いつでも、常に戦う準備ができていた正真正銘のプロだった。ウルタドのキャリアは決して大成功ではなかったが、のちのキューバ人、エリスランディ・ララやギジェルモ・リコンドーら新世代のための道を開いた。
ボクシングに人生を捧げ、プロの世界王者になるという夢を実現した一人のキューバからの亡命者がいた。
当時のボクシングを覚えている人なら、ウルタドの事もよく覚えているだろう。
五輪のメダリストクラスではないのにどういう経緯でプロとしてやっているんだろう、やっぱりキューバというのは底が知れないなと感じたものだった。
改めてキャリアを振り返ると、世界挑戦がウィテカーとジュー、相手が強すぎた。それでもウィテカーからダウンを奪い、逆転されるまでほぼ勝利を手に入れており、ジューから初回に2度もダウンを奪っている。ダウンの応酬が定番、最高にリスキーな存在だった。
ロープで背を向ける悪癖とあるが、たしかにそういうシーンが多く、そこで強打を打ち込まれていた。
ウィテカー逆転の左連打は永遠のビデオだろう。
そういえばウルタドという個性的な選手がいたなぁという程度だったが、その後プエルトリコでランドール・ベイリーを下して世界王者になっていた、それも束の間初防衛戦でビビアン・ハリスに負けてすぐ陥落してしまった事までは知らなかった。
通算戦績
43勝26KO3敗1分
負けはウィテカーとジュー、ビビアン・ハリスだけ。
ウィテカーに勝ちかけ、ジューとはダウンの応酬。
ジュー戦は10日前のオファー、15日前に試合したばかり・・・
プロ中のプロといえるキャリアだった。
世界王者になって本当に良かった。
ブラックマネー/オリエンタル・キッドというニックネームの由来は知らない。
182センチという長身だが、アマではフェザー級で同国のカサマヨールやフリオ・ゴンザレスに勝ったりしている。
BOXRECではスペインに住んでいると書かれている。
穏やかな人生を送っていて欲しい。