むき出しの言語(拳)/Baby Face Assassin(童顔の暗殺者)マルコ・アントニオ・バレラ

モラレスVSバレラの三部作について何が言えるだろう?それはある意味彼らの遺言状だった。彼らは互いに憎しみあって36ラウンドの歴史を作った。暴力、勇気、後退することを拒絶した。

https://www.youtube.com/watch?v=DPsp4fvVApM

2016年8月8日、マルコ・アントニオ・バレラは国際ボクシング殿堂入りを果たした。バレラは歴史に記録された。22年以上に渡ってバレラは1990年代後半から2000年代初頭のベストファイターの一人としてだけでなく、歴史上最高のファイターの一人としてハイレベルな戦いを繰り広げた。

自分の力を証明するためにはパートナーが必要だ。その時代、それを証明すべく多くのライバルに恵まれたのもバレラにとっては幸運だった。ジュニア・ジョーンズ、エリック・モラレス、ケビン・ケリー、ナシーム・ハメド、マニー・パッキャオ、ファン・マヌエル・マルケス・・・

彼らはバレラの偉大さを測定する秤であり、勝利または敗北においても、いつもバレラは輝いていた。本物の、まさに本物のファイターだった。

マルコ・アントニオ・バレラは15歳でプロボクサーになった。1989年から1996年の間、スーパーフライ級からスーパーバンタム級でゆっくりと確実に上昇を続け、全ての敵を破壊していった。

1994年4月13日、川島郭志の持つWBC世界スーパーフライ級王座の挑戦権をかけて、後に世界2階級制覇を達成するカルロス・サラサール(アルゼンチン)と挑戦者決定戦を行う。前日の軽量で体重超過で失格になるも試合は判定勝ち。

この後スーパーバンタム級に転級。同年10月22日、ヘスス・サラビアとWBAペンタコンチネンタルスーパーバンタム級王座を争い、3回TKO勝ちで同王座を獲得した。

同年12月3日、元WBA世界バンタム級王者のエディ・クック(アメリカ)とWBAペンタコンチネンタルスーパーバンタム級王座の初防衛戦を行い、8回TKO勝ちで初防衛に成功。クックはこの敗戦を機に引退しこの試合がラストファイトとなった。

1995年3月31日、35戦目にして世界初挑戦。ダニエル・ヒメネス(プエルトリコ)が持つ、WBO世界スーパーバンタム級王座に挑戦し、12回判定で破り悲願の世界王者となった。スーパーバンタム級で無敵の快進撃、この時点で決定的な瞬間はソウル五輪バンタム級金メダリスト、ケネディ・マッキニーに対する勝利であり、メキシカンの底力を知らしめた。

7回までマッキニーはバレラをやりたいようにさせず翻弄したが、8回にバレラに捕まり2度のダウンを奪われた。9回を耐えたマッキニーは再びロープ際で試合を立て直し、11回にはバレラからキャリア初のダウンを奪い返した。しかし最終回はバレラの殺人本能のデモンストレーションだった。レフリーのパット・ラッセルが躊躇なく試合を止めるまでバレラは一撃残らず破壊的だった。この時マッキニーは30歳だった。プロ7年目の22歳のバレラはこの試合で本物であることを証明してみせた。

HBOボクシングアフターダークの視聴者の恩恵を受け、フリー・セサール・チャベスに続く次のメキシカンスターとしての資格を得たバレラの不滅のオーラはさらに3試合続いた。

元WBO世界スーパーバンタム級王者のジェシー・ベナビデス(アメリカ)と対戦し、3回KOで勝利し6度目の防衛に成功。

同年7月14日、元WBO世界スーパーバンタム級王者のオーランド・フェルナンデス(プエルトリコ)と対戦し、7回KOで勝利し7度目の防衛に成功。

同年9月14日、NABO北米スーパーバンタム級王者のジェシー・マガナ(アメリカ)と対戦し、10回TKO勝利で8度目の防衛に成功。

同年11月22日、元WBA世界バンタム級王者のジュニア・ジョーンズ(アメリカ)と対戦、5回にバレラがダウンした際にマネージャーがリングに昇ってきて試合を止めたため、WBOルールにより失格負けとなり初黒星を喫した。

https://www.youtube.com/watch?v=IbeGDhcksJ0

ベビーフェイス・アサシン(童顔の暗殺者)と言われたバレラはジュニア・ジョーンズが数年前に経験した時と同じように突然の挫折を味わった。

1997年4月18日にジョーンズと再戦するも12回判定負けに終わる。初戦でバレラが大番狂わせで敗れたのはまぐれで、再戦ではバレラが勝利すると予想する人が多かったが、あっけなくジョーンズに判定で敗れてしまった。その後1年ほどボクシングから離れ休業することになる。

さらに悪いことに、もう一人別のボクサーがメキシコ人の心を掴み始めていた。エリック・モラレスは3年前にバレラが旋風を巻き起こした時と同様の獰猛さでシーンに登場した。

2000年2月19日、同じメキシコ出身で人気を二分する同世代のボクサー、WBC世界スーパーバンタム級王者のエリック・モラレスとラスベガスで初めて対戦。バレラは12回判定負けするも、この試合はリングマガジンの2000年度ファイト・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。モラレスはしばらくWBO王者に認定されることになるが、WBOはこの試合でバレラが負けたとされるのは間違っているとして、ジャッジの公式判定を無視しバレラを再び王者に認定することにした。

この試合の勝者とナシーム・ハメドは対戦することに合意していた。ファン・マヌエル・マルケスの指名挑戦から2年も回避して人気者の両者との対戦を計画していたのだ。

ハメドと当時のトレーナー、エマニュエル・スチュワードは最終的にモラレスではなくバレラを選んだ。バレラがモラレス戦と同じスタイルでハメドと戦っていたら、ハメドの強力な左の餌食になっていたかもしれない。

2001年4月7日、バレラは階級を上げて当時無敗街道を突き進んでいた人気ボクサー、ナジーム・ハメド(英国)と対戦し、12回判定勝ちで破る。バレラは質実剛健のボクシングを展開し、トリッキーで一発を狙うハメドを完全に抑え込み、最も記憶に残るボクシングレッスンをもたらした。

本来ほとんどガードをしないハメドは、バレラの果敢な攻撃にたまらず2R以降ガードを上げて戦うという苦しい展開になった。時期尚早に歴史上最高のファイターと一人とみなされたハメドの解体劇は、バレラにとって言葉にできないような称賛、遺産となった。

ハメド
「偉大なファイターは敗北するものだ。私は必ず帰ってくる」

初黒星を喫したハメドは、この試合後に起きたアメリカ同時多発テロ事件によるアラブ系への感情悪化による再起戦の中止や、人身事故を起こして刑に服すなどトラブルもあり、2002年に1試合したのみで事実上引退した。

2002年6月22日、エリック・モラレスとWBC世界フェザー級王座を賭け再戦し、12回判定勝ちでリベンジを果たし41戦全勝のモラレスに初黒星を付けた。バレラは勝ってもタイトルは受け取らないと試合前に表明していたため、ベルトは受け取らなかった(形式としては、王座獲得後に即日返上ということになっている)。同時に、空位のリングマガジン認定世界フェザー級王座を獲得した。

同年11月2日、旧友でもある元2階級世界王者ジョニー・タピア(米国)と、リングマガジン認定世界フェザー級王座を掛けて対戦し、12回判定勝ち。

https://www.youtube.com/watch?v=GLJFnLCGhCQ

2003年4月12日、元WBC世界フェザー級王者のケビン・ケリー(米国)と、リングマガジン認定世界フェザー級王座を掛けて対戦し、初回にいきなりのダウンを奪い、4回には右のアッパーでダウンを奪うと立ち上がったケリーに再び右のパンチを合わせこの回2度目のダウンを奪う、タフなケリーはまたも立ち上がるが最後は連打を浴びせケリーがロープ背負った所でレフリーストップ、4回TKO勝ちを収めた。

同年11月15日、マニー・パッキャオ(フィリピン)戦で11回TKOで敗北し、リングマガジン認定世界フェザー級王座を奪われる。

この前月、バレラが1997年のジュニア・ジョーンズ戦後にメキシコシティで脳の切開手術を受けていたことを暴露する記事を米国のウェブサイトが掲載。バレラは1995年から頭痛がするようになり、1997年に海綿状血管腫の手術を受け、頭蓋骨の内側には金属プレートが固定されている。それ以来、各地で検査を受けたが異常がないまま16試合を戦い、このパッキャオ戦でもテキサス州の検査を受け、試合出場を認められていた。しかし、マスメディアはバレラが手術を受けた事実をこれまで周囲の関係者に隠していたことを問題視し、スキャンダラスに報じた。

バレラは試合まで数日という頃、『USAトゥデイ』の取材に対し、

「こういうことが公になったからには、もう誰も私を "Baby Face Assassin"(童顔の暗殺者)と呼ばないかもしれない。たぶん『信じられない男』とか何かそんなふうに呼ぶだろう」と語っている。

2004年6月19日、元WBA世界バンタム級王者ポーリー・アヤラ(米国)と対戦し、10回TKO勝ち。

2004年11月27日、エリック・モラレスとのラバーマッチで2-0の判定勝ちを収め、WBC世界スーパーフェザー級王座を獲得して3階級制覇王者となった。モラレスとの3試合は全て激闘の接戦だったが、この試合で2勝1敗と勝ち越し同世代のライバル対決に終止符を打った。

2006年5月20日、WBC世界スーパーフェザー級タイトルマッチにてロッキー・ファレス(米国)と対戦し、12回2-1の僅差判定勝ちでタイトル防衛に成功。

2007年3月17日、WBC世界スーパーフェザー級タイトルマッチにてファン・マヌエル・マルケス(メキシコ)と対戦し、12回0-3の判定で敗北し王座から陥落。同年10月6日、マニー・パッキャオ(フィリピン)との再戦で12回0-3の大差の判定で完敗を喫しマルケス戦の敗戦に続いて2連敗となり試合後に引退を表明した。

その後もアミール・カーン戦や数戦戦うもメジャーシーンに戻ることなく静かに引退した。

通算戦績 67勝44KO7敗1無効試合

メキシコスーパーフライ級王座(防衛5)
NABF北米スーパーフライ級王座(防衛0)
WBAペンタコンチネンタルスーパーバンタム級王座(防衛1)
第7代WBO世界スーパーバンタム級王座(防衛8)
第10代WBO世界スーパーバンタム級王座(防衛5)「再認定後の防衛回数も含む」
IBO世界フェザー級王座(防衛0)
第32代WBC世界フェザー級王座(防衛0=返上)
リングマガジン認定世界フェザー級王座
第26代WBC世界スーパーフェザー級王座(防衛4)
第18代IBF世界スーパーフェザー級王座(防衛0=返上)

モラレスVSバレラの三部作について何が言えるだろう?それはある意味彼らの遺言状だった。彼らは互いに憎しみあって36ラウンドの歴史を作った。暴力、勇気、後退することを拒絶した。再びこの三部作を観て、誰がボクシングの本質は「打った、打たれなかった」などと言うだろうか。

モラレスとバレラの敵意がどのようにして生まれたのかは定かではない。サッカーの試合中のケンカ、個人的な侮辱、スパーリングセッションの時などいくつかの瞬間があったのだろう。真実は、敵意が否定できないものであり、どちらも相手の考えについて慎重、否定的だったということだ。

アルツロ・ガッティVSミッキー・ウォード、ラファエル・マルケスVSイスラエル・バスケス、マルコ・アントニオ・バレラVSエリック・モラレス

ボクシングは永遠に忘れられない数奇なライバルを生み出した。我々は皆、この言語を理解している。むき出しの、誠実で、激しい競争力。それは単純に二つの意思の対立だった。

マルコ・アントニオ・バレラの家は裕福で、ボクシングを選ぶ必要などない環境で育った。
弁護士になるべくロースクールにも通っていた。
ジョニー・タピアとの戦いが終わるまで学業を続けていた。
ファイターとして生きていく宿命を受け入れた瞬間だった。

マルコ・アントニオ・バレラが偉大なのは、スーパーフライ級からフェザー級まで、考えられる全ての敵と戦ってきたことだ。全盛期のバレラのキャリアは相手の質も高く試合間隔も短い。1年中ファイトしてファンを熱狂させてきた。その全てのファイトがメキシカンクラシックといえる男らしい炎の打ち合い、その中に高度で老獪な技術が含まれていた。

どんな天才でもマルコ・アントニオ・バレラにはなれない。
なれるとしたら、複数階級に渡り、考えうる全てのライバルを倒し、あるいはライバルを作り、燃え尽きるまで戦うことだけだ。

https://www.youtube.com/watch?v=Dinj7w57D_w

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