セルジオ・ガブリエル・マルチネス、アルゼンチン人の域を超えたクールでインテリジェンスたっぷりなそのボクシングは、アルゼンチンの枠に収まらないほどの移動と苦労があったから培われたものだった。20歳を超えてからはじめたボクシング、天才が情熱を忘れず努力を重ねた果てに開花した異形の才能。
マルチネスの2人の叔父はボクサーだったにも関わらず(一人はプロ)彼は20歳になるまでグローブをはめることはなかった。それまではサッカーと自転車競技をしていた。
トレーニングの一環でボクシングを取り入れたことがきっかけだった。セルジオはボクシングに夢中になり、1か月後にはアマチュアの試合に出た。ボクシング歴18か月、41戦の試合をこなし39勝2敗という成績を残した。2度のアルゼンチン王者、大陸王者にもなった。1997年、同国のオマル・ナルバエス、ハビエル・アルバレスと共に世界アマチュア選手権にも出場した。セルジオをみた地元のジャーナリストが彼をMaravilla(驚異の男)と表現した。アマチュアの頃から「脅威の男」だった。
1997年、2000年のオリンピック候補だったセルジオは五輪を断念しプロに転向。地元ブエノスアイレスを中心に16勝1分を記録。はじめての世界戦、モラレスVSバレラの前座で経験豊富なメキシコの強豪、アントニオ・マルガリートに挑戦した。
プロ18戦目、初海外試合でアントニオ・マルガリート(メキシコ)と対戦し、7回TKO負け。キャリア初黒星となった。 この時のことを、当時はお金を稼ぐために朝5時か6時には起床して溶接工をしていた父親の手伝いをしており、一日中働いて夜からしかボクシングの練習ができなかった上に、アルゼンチンのボクシング連盟が非協力的でスパーリングなどが行えず、自分一人で練習するしかなかった。またこの敗北によりトレーナー、アルゼンチンのボクシング関係者、後援者が一気に離れていったことで人生について多くのことを学んだと、のちに回顧している。
世界挑戦に失敗したセルジオを皆が見捨てスポンサーを失った。さらに左手の怪我を再発したセルジオは治療と11か月の静養を余儀なくされた。しかしこの時の静養が彼の左パンチを蘇らせたと主張している。
医師にボクシングを諦めるように言われた。今でもセルジオの拳は間接が一つ欠けている。復帰後、アルゼンチンで8試合戦い、国内ウェルター級王者に輝いた。
スポンサーを失ったセルジオは新たなスタートを求めて、スペインのマドリードに向かった。しかし新天地スペインでは最悪のスタートとなった。到着してまもなく持ち物全てを盗まれた。スペインでの頼りとなる情報全てを失くしてしまったが、靴に現在のトレーナーであるパブロ・サルミエントの電話番号を書いていた。彼らはアルゼンチンで出会ったが、仲違いして別々の道を歩んでいた。
セルジオはサルミエントの元でスペインで4連勝したが、全て無名の格下相手だった。IBOライトミドル級タイトルで英国のリチャード・ウィリアムズ戦のオファーを受けた時にやっと2度目のチャンスを手に入れた。強豪のウィリアムスに3回にダウンを奪われるも、スピードとスキルを駆使して明白な判定勝利。4か月後、元世界挑戦者のエイドリアン・ストーン戦のオファーを受け渡英、エキサイティングな試合の果てに12回でストップ勝ち。北アイルランドのベルファストでウィリアムスと再戦、ベストパフォーマンスを披露し9回ノックアウトで返り討ちにした。
セルジオは世界タイトルマッチを求めたが、スポンサーがおらず財政的な問題を抱えていた。シェアハウスに住み、用心棒や皿洗いまで、できる仕事は何でもしていた。この時点でさえ、セルジオは1000ユーロファイターのままだった。2005年3月、セルジオはアルバート・エアラペティアンと戦い11回TKO勝ち。アルバートの兄弟のアレズは試合後にセルジオに襲い掛かり、セルジオは後頭部を10針縫う怪我をした。
https://www.youtube.com/watch?v=Gm4Wttituzk
2007年、セルジオに転機がやってきた。マニー・パッキャオをアメリカに連れてきたと言われるサンプソン・レウクヴィッツにコンタクトをとると、すぐにアメリカで2試合手配してくれた。スーパーウェルター級のタイトルエリミネーターでサウル・ローマンをノックアウト。
2007年10月、スペインでマイナーな試合を挟んだセルジオに朗報が舞い込んだ。レウクヴィッツがトップランクを含む米国のトッププロモーションにセルジオを売り込んだ。彼らは32歳と高齢のセルジオを拒否したが、ルー・ディベラがこの才能を見逃さなかった。最低保証30000ドルで4試合の契約をセルジオと結んだ。ようやくセルジオはカルフォルニア州オックスナードを拠点とする世界ランカーとしての立場を確立した。契約後3試合はパッとしない内容の勝利だったが、4戦目、コンゴのアレックス・ブネマ戦、ブネマは9カ月前にローマン・カルマジンを破った強豪だったが、WBCスーパーウェルター級暫定王者をかけたこの戦いはセルジオのHBOデビュー戦でもあった。きらめくパフォーマンスでブネマを圧倒、8回リングドクターが試合を止めた。
https://www.youtube.com/watch?v=GuH40--Nyng
2009年2月14日、フロリダ州にてネート・キャンベル対アリ・フネカの前座でカーミット・シントロン(プエルトリコ)と対戦し、1-0(116-110、113-113が2者)の判定で引き分けたが初防衛に成功。7回には左ストレートでダウンを奪いカウントアウトで試合が止められるも、シントロンがヘッドバットだとアピールし試合が再開される場面もあった。
正規王者バーノン・フォレスト(アメリカ)が肋骨負傷による戦線離脱を原因に王座を剥奪されたため、空位の正規王座に認定され正規王者となった。
シントロン戦の不運な引き分けに続き、ノンタイトルでポール・ウィリアムス戦を引き受けるまで10カ月のブランクを作った。ウィリアムスは元々ケリー・パブリクと戦う予定だったが、パブリクが脱落、マルチネスは初めてミドル級にトライした。両者は素晴らしい戦いを繰り広げた。互いにダウンを奪い合う初回を経て、セルジオは米国の期待値髙いウィリアムスに勝利に等しいパフォーマンスを披露したがジャッジはありえない判定を下した。中には9ポイント差でウィリアムスというひどい判定の末、0-2で敗北という辛酸をなめた。
ウィリアムス戦の失意に落ち込むことなく、ニュージャージー州のボードウォーク・ホールにてケリー・パブリク(アメリカ)の持つWBC・WBO・リングマガジン世界ミドル級王座に挑戦し、3-0の判定勝ちで王座を獲得し2階級制覇を達成。WBO世界ミドル級王座は同年6月1日に剥奪され、WBC世界スーパーウェルター級王座は返上した。
再戦を放棄したパブリクに代わり、ポール・ウィリアムスと再戦。
セルジオはアンダードッグとしてこの試合を迎えた。初回から激しい打ち合い、ハイペースで試合は進み、続く2回、セルジオの左オーバーハンドが、ウィリアムスのアゴを直撃、顔面からマットにダイブしたウィリアムスはそのまま気絶した。それは、セルジオが数年前に医師から引退を薦めらるほどの損傷を負った左拳による渾身の一撃だった。この劇的な勝利の裏にはトレーナーのガブリエル・サルミエント(パブロ・サルミエントの兄)の多大な貢献があった。彼らの初戦を観たガブリエルはウィリアムスに重大な欠陥があることに気づき夜も眠れなかった。
セルジオ
「2カ月間のトレーニングキャンプをしてきたけど、試合の2日前になって、全ての戦略を破棄しました。あの左パンチ、数インチずらしたあのパンチはガブリエルがウィリアムスの欠陥を発見して用意した必殺パンチだったんだ。」この試合は2010年度のリングマガジン ノックアウト・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、サルミエントも年間最優秀トレーナーに輝いた。
2011年1月18日、WBCより名誉王座に認定される。
2011年3月4日、ヘッドトレーナーのガブリエル・サルミエントが2008年に起きた事件の加重暴行容疑で逮捕され懲役8年の宣告を受けた(2013年に仮釈放)。これ以降、ガブリエルの弟パブロ・サルミエントがヘッドトレーナーを務めている。
2011年3月12日、コネチカット州レッドヤード市のフォックスウッズ・リゾート・カジノ内にあるMGMグランド・アット・フォックスウッズで行われたWBC世界ミドル級ダイヤモンド王座決定戦で、ここまで37戦37勝(24KO)無敗のWBO世界スーパーウェルター級王者セルゲイ・ジンジラク(ウクライナ)と対戦し、8回1分43秒TKO勝ちを収めWBCダイヤモンド王座を獲得。
https://www.youtube.com/watch?v=sKB36uj6p3U
2011年10月1日、ニュージャージー州アトランティックシティの ボードウォーク・ホール・ダンスホールにて、23戦23(14KO)無敗で後のIBF世界ミドル級王者ダレン・バーカー(イギリス)と対戦し、11回KO勝ちでWBCダイヤモンド王座の初防衛に成功。
2012年3月17日、ニューヨークの マディソン・スクエア・ガーデン・シアター で、WBC世界ミドル級2位のマシュー・マックリン(イギリス)と対戦し、11回終了TKO勝ちでWBCダイヤモンド王座の2度目の防衛に成功した。
2012年9月15日、ラスベガスのトーマス&マック・センターで、WBC世界ミドル級王者フリオ・セサール・チャベス・ジュニア(メキシコ)と対戦。12回にダウンを奪われるも、3-0(118-109が2者、117-110)の判定勝ちを収め1年8ヵ月ぶりに正規王座に返り咲いた。試合後にマルチネスが4ラウンドで左手を亀裂骨折していたことが判明、さらに診断の結果、右ひざの靭帯も部分断裂していたためスペインで手術を受けた。対戦相手のフリオ・セサール・チャベス・ジュニアは試合後のドーピング検査でマリファナが検出され出場停止と罰金が科せられた。
2013年4月27日、ブエノスアイレスにあるエスタディオ・ホセ・アマルフィターニでWBA世界ミドル級暫定王者マーティン・マレー(イギリス)とWBC世界ミドル級王座の初防衛戦を行い、3-0(3者とも115-112)の判定勝ちで初防衛に成功]。マルチネスは2002年以来、約11年ぶりの母国アルゼンチンでの試合となった。
しかし再び左手を骨折、右ひざを損傷し手術を受けることになる。
左手の骨折は試合途中の2ラウンドに負ったものであったが、右ひざは試合前のトレーニング中に負傷しており、「怪我は全て100%治癒した」と発表していたが、実際には負傷が癒えない中での試合だった。2013年11月6日、WBC総会でマルコ・アントニオ・ルビオと指名試合を行うよう指令が出され、負傷欠場中であるセルヒオ・マルチネスがルビオと試合を行えない場合には、暫定王座を賭けてルビオとドメニコ・スパダが対戦することが決定された。
2014年6月7日、約1年ぶりの試合をニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで元世界3階級制覇王者でWBC世界ミドル級1位のミゲール・コットと対戦し、初回に3回のダウンを喫する苦しい立ち上がりからその後も被弾し続け、9回にもダウンを喫する。10回開始直後、セコンドがレフェリーに棄権を申し出た為、10回6秒TKO負けを喫し2度目の防衛に失敗、王座から陥落した。
2015年6月13日、ニューヨーク州マディソン郡カナストータの国際ボクシング殿堂の席で現役引退を発表した。
記事はセルゲイ・ジンジラクで止まっていたのでWIKIで補足しました。
当時さほど熱心ではなかったので、セルジオ・マルチネスに関しては、カーミット・シントロン戦くらいで知った。突然出てきたダンディーな色男という印象だったが、勝ちに等しい試合を引き分けや負けにされるなど不運だった。
マルガリート戦での挫折、スペインでの苦労、アメリカでも不運な判定が続く、怪我ばかり・・・と大変な苦労を重ねてきたことが改めてわかった。
キャリアの転機となる瞬間に
サルミエント兄弟
サンプソン・レウクヴィッツ
ルー・ディベラ
など、セルジオの才能を見抜いた人達との出会いがあってなんとかやってこれた、大変な道のりだった。30歳を過ぎて出てきた遅咲きの天才は、ウェルター級かスーパーウェルター級程度の体格だったとおもう。
ミドル級の猛者に勝ち続け、最後は満身創痍の怪我だらけだったが、諦めかけたボクシング、壊れかけた左拳でレジェンドクラスの王者に輝いた。
全盛期は最高にかっこいいインテリジェンスなスタイルだったが、20歳からはじめたようなボクシングにはみえなかった。今後、アルゼンチンからこのクラスでマルチネスのような王者は現れるのだろうか。
やっぱり、スペインのキャリアがあるせいか、普通のアルゼンチンファイターよりインテリジェントな香りを感じた。永遠のマスターピース、セルジオ・ガブリエル・マルチネス、名勝負の数々をありがとう。