バンタム級卒業の果て/ポーリー・アヤラ

トニー・アヤラ繋がりでポーリー・アヤラを読んでみたら、兄弟ではない、恐らく親戚でもないのではないか、そのくらい、厳格で聡明な男でした。これを読むと辰吉はラッキーだった。あのキャリアで勝てる相手ではなかったのかもしれません。

ポーリー・アヤラは1990年代後半にWBAバンタム級王者となり、その時代のベストのファイターと戦ってきた勤勉なファイターだ。

アヤラは1970年テキサス州フォートワースで生まれた。父親がベトナム戦争帰りの軍人で厳格だったのでその厳しい躾が後のアヤラのボクシングのキャリアに一役買った。

アヤラ
「今のように戦争セラピーとかがなく、当時の治療法は家に帰って元の暮らしに戻ることでした。私も兄弟もセラピストのようなもので、長い間軍の訓練施設で暮らしたので毎日が過酷でした。格闘家のメンタリティーで育ちました。」

4歳の時にボクシングをはじめたアヤラは様々なアマチュアタイトルを獲得した。強力なライバルにバルセロナオリンピックアメリカ代表のセルジオ・レイジェスがいた。彼との16度に及ぶ戦いは7勝9敗でレイジェスに軍配があがった。約270勝30敗のアマチュア記録を残した。

テキサスのサウスポー、アヤラは1992年にプロに転向、NABFバンタム級王座を獲るまで13連勝を記録した。

1998年8月23日、WBC世界バンタム級王者辰吉丈一郎に指名挑戦者として挑戦。6回、アヤラのバッティングで辰吉が左眉付近をカットし、アヤラに減点1が与えられた。ドクターチェック後、試合は再開されたが、7回開始直後に試合はストップされ0-3の負傷判定負けで王座獲得に失敗。デビュー以来の連勝は25でストップした。

https://www.youtube.com/watch?v=aUUKolrh5LE

1999年6月26日、WBA世界バンタム級王者ジョニー・タピアに挑戦。1-6でタピア有利とオッズのついた対戦でアヤラは2度目のチャンスを逃さなかった。

激しく緻密な攻防の果てに3-0の判定勝ちで王座を獲得。タピアにプロキャリア初黒星をつけた。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出され、同年のリングマガジン ファイター・オブ・ザ・イヤーにも選出された。

アヤラ
「タピアに勝ってついにカルマ(運命)を手に入れました。タピアは無敗で有名人だったので最高の気分でした。」

地元の凱旋パレードでアヤラは昔の想い出を呼び起こした。

アヤラ
「私が子供の頃、フォートワースには5人の世界王者がいました。ブルース、ドナルドのカリー兄弟、スティーブ・クルズ、ジーン・ハッチャー、トロイ・ドーシーです。私はアマチュアとして彼らと一緒にトレーニングしていました。1986年にスティーブ・クルズがバリー・マクギガンを破って世界王者になった時、私もジュニアオリンピックで優勝しました。クルズは自分のパレードのオープンカーに私をのせてくれた。とてもうれしかったので、私も自分のパレードで同じ事をしました。アマチュアのみんなをオープンカーに乗せて走りました。」

その後地元の7000人のファンの前でタイのタフなサオヒン・スリタイコンドーを破り防衛、ファイターオブジイヤーも受賞した。ジョニー・ブレダルにも勝ってタピアと124ポンドのキャッチウェイトで再戦し、判定勝ち。

アヤラ
「2試合ともに文句なく私が勝ったとおもう。初戦はタピアが王者だったので私が彼を追いかける必要があった。再戦では立場が逆転したので同じ戦い方をしませんでした。タピアは私を追うのをためらっていた。私から攻めてくるのを待っていた。だから私は違うアプローチをした。タピアの狙いを見抜いていました。タピアはやりにくかったでしょう。」

バンタム級での役目を終えたアヤラはスーパーバンタム級にステップアップし、クラレンス・アダムスと対戦、拮抗した名勝負を2度演じた。アヤラはその偉大なキャリアをフェザー級のレジェンド、2人のメキシカンで締めくくった。

https://www.youtube.com/watch?v=qoECfln0YCE

https://www.youtube.com/watch?v=vQmdRh6LP8o

2002年11月16日、WBC世界フェザー級王座決定戦でエリック・モラレスと対戦し、判定負けで王座獲得ならず。

2004年6月19日、マルコ・アントニオ・バレラと対戦し、10回TKO負け。この試合を最後に引退した。

アヤラ
「私はノックアウトが多いファイターではなかったから、彼ら(モラレスやバレラ)から敬意を引き出さなければなりませんでした。そうでないと彼らは私を倒そうと襲い掛かってきたでしょうから。」

現在49歳のアヤラには27年間連れ添う妻と二人の子供がいる。2004年からポーリーアヤラハードノックス大学を経営している。危険にさらされる子どもたちに対するプログラムやパーキンソン病患者向けのプログラムなど、様々な学習プログラムを用意している。

生涯戦績
35勝12KO3敗

ライバルについて

ベストジャブ エリック・モラレス

モラレスにもバレラにも素晴らしいジャブがありました。避けきれませんでした。ファイトもアウトボックスも達者でした。一人に絞るならモラレスにします。固い、固いジャブでした。連打のジャブでも単発のジャブでもボディへのジャブでも、テコの原理を上手く使いわけて様々な角度から一貫して強いジャブのバリエーションを持つ男でした。

ベストディフェンス マルコ・アントニオ・バレラ

スリッピングアウェイが巧くて当てても芯を外されてしまいました。当たってもスリッピングで衝撃を抑えるので彼が打ってきた時に当てないと堅実なショットになりませんでした。バレラがディフェンスしている限り、全部芯を外されるのでまともにパンチを当てることができません。

ハンドスピード ジョニー・タピア

とても多くのコンビネーションを打ってきた。当たっているわけじゃないけど、コンビネーションの多さ、多彩さは抜群でかなり速かったです。

フットワーク ジョニー・タピア

とてもいい脚を持っていた。彼は脚を動かしアウトボックスすることに固執していました。難しい試合でした。彼はイライラし感情的に熱くなったので打ち合いに巻き込まれ、フットワークを止める理由になったのです。

ベストチン ジョニー・タピア

タピア、バレラ、モラレス、みんな頑丈なアゴを持っていた。けれどジョニーにしよう。彼はスーパーフライ級からバンタム級の選手だった。モラレスやバレラより小さいし私はたくさん殴ったけど頑丈だった。

スマート バレラ

バレラのボディであばら骨が折れました。彼にそういうチャンスを与えてしまった。私はゲームプランを間違えました。バレラをリスペクトしすぎて打ち合いを避け、アウトボクシングに拘り過ぎていました。マスターとチェスをしようとしたのです。

屈強 サオヒン・スリタイコンドー

肉体の強靭さはかなりのものでした。ムエタイの王者だったらしい。ボディコンタクトした時のフィジカルが他の相手とは違いました。

https://www.youtube.com/watch?v=zUaMy4ERsFE

ベストパンチャー モラレス

バレラとの闘いを含めても、過去一番殴られました。2回に食ったアッパーで私の目は閉じ、彼の右がみえなくなりました。バレラ戦で唯一ノックアウト負けしましたが、あれはボディであばら骨を折られたからです。モラレスのパンチはブロックの上からでも強烈でした。

ベストスキル バレラ

アウトボクシングでコントロールされ、ボディでチェックメイトされました。

総合 モラレス

ベストはモラレスだったとおもいます。もっと楽にアウトボクシングもできる男でしたが、ファイターとしてノックアウトを望んでいて、勇敢に攻めてきました。逃げ隠れしないんです。彼は避けることもブロックもカウンターも何でもできる、様々なアングルから攻めることができました。

アマチュアキャリアがすさまじくもう完成された状態でプロに来たのではないだろうか?辰吉戦の負傷判定はルールだから仕方ないが白黒つける内容のものではなかった。

世界戦での負傷判定負けで初黒星、戴冠ならずという結果がアヤラの闘志に火を注ぎ、当時46勝無敗のジョニー・タピアを破る快挙に繋がった。再戦でも勝っているのでこれが本来のアヤラの実力だろう。快挙ではない。実質無敗だ。突き抜けて強いタイプではないが堅実で接戦を確実にものにするタイプ。

クラレンス・アダムスとの名勝負を経て、階級でやり残したことがなくなり、フェザー級のレジェンドに挑むもいずれも敗北。モラレス、バレラに負けただけでキャリアを終えたプロ生活でした。

アヤラの唯一の欠点は、小柄でパワー型ではない事、火力がない事。フェザー級で通用するフィジカルではなかった。
ずっとバンタム級にいればオーランド・カニサレスのように極めて長い防衛を重ねていきそうだった。

辰吉(負傷判定)・モラレス・バレラに負けただけだった。
辰吉も周囲の手腕次第でモラレス、バレラ、マルケスの世界に行けたはずだ。

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