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Winner Take All/(豪州の稲妻)コンスタンチン・ジュー

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今ボクシング界で最激戦区はスーパーライト級だとおもう。才能の宝庫である。しかしコンスタンチン・ジューのように圧倒的に突き抜けてこのベルトが似合うものは一人もいない。そんなジューの記憶を少しだけ・・・

ロシア発の世界王者、コンスタンチン・ジューはボクシングの歴史においても最高のファイターの一人だ。しかし彼は初めから才能に恵まれていたわけではないと言う。

議論の余地なきスーパーライト級の世界王者としての栄光を築いたコンスタンチン・ジューはボクシングを始めた少年時代を「平凡」という言葉で例えた。「平凡」だからこそ、高い野心を持ってこのスポーツに取り組んだ。

ジュー
「ボクシングに真剣に取り組んでいた頃は、朝起きて、5時半からトレーニングしてその後に学校に行きました。2時頃に学校から帰り、4時に再びトレーニング。6時か7時くらいに帰宅して夕食を食べて、宿題をして寝る。とても退屈でシンプルな生活ですが、何かを成しえるには犠牲が伴うものです。」

コンスタンチン・ジューの物語を簡単に言えば「規律」と「品位」に尽きる。夢の実現の物語でもある。

ジューのボクシングの才能が「平凡」であったという事に異議を唱える人もいるかもしれない。かつてのソビエトのコーチはジューのナチュラルな才能は「神からの贈り物」だと言った。その「平凡」な子供はどうして、259勝11敗のアマチュアレコードを残し、プロとしてベルトを統一、31戦してほぼ無敗といえる記録を残すことができたのだろうか。

ジューは自分の成功は「神からの贈り物」などではなく、規律の結果であると主張する。

ジュー
「「平凡」だからこそ、人より多くの練習、準備をしてきました。懸命に努力せずに成功を収めることはできません。贈り物を信じることもできません。「神からの贈り物」という才能は結局だめになるのです。」

多くのボクサー同様にジューは貧しい家庭に生まれた。
ウラル山脈の工業都市セロフ生まれ、朝鮮人とモンゴル人の血を引く父親は金属工場の技師で、母親はロシア人。ジューと父のボリス、母親と妹のオルガは別の家族とのシェアルームで2つのベッドで寝た。ジューは床で寝ていた。ジューが9歳になった頃、ボリスは息子が暇を持て余し怠け者になってはいけないと地元のボクシングジムに連れて行った。

ジューは昔話を懐かしむタイプではない、色々な経験を経て、ともかくジューは数年間で偉大なファイターに成長した。強靭な肉体と破壊的なパワーは相手にとって悪夢だった。ジューは人々が借金を重ねるかのごとくトロフィーを集めていった。ソビエト全国選手権で6度、ヨーロッパ選手権で3度優勝、最優秀選手に2度選ばれた。1991年、オーストラリアのシドニーで行われた世界選手権で金メダルを獲得、ソウルオリンピック3回戦まで進出した。

ジュー
「とても充実した時間でした。誰もが出来ないことを成し遂げた。最高のアマチュア生活でした。」

ソビエト連邦崩壊後の1992年に、1991年に世界選手権で訪れたオーストラリアに現在の妻とともに移住し、そこで家庭を築き、同年3月1日にプロデビューした。

ジュー
「プロとしてボクシングをしたかったが、祖国では難しい状況でした。政治的な理由でロシアを離れたわけではありません。単純にボクシングを続けたかっただけです。オーストラリアは当時できる最良の選択でした。」

ジューと当時のガールフレンドで現在の妻ナターシャはオーストラリアの関係者の尽力もありわずか1000ドルで地球の反対側に移住した。オーストラリアの伝説的なトレーナー、ジョニー・ルイスと手を組んだジューは連勝を続け、14戦目でIBFスーパーライト級王者、ジェイク・ロドリゲスを圧倒し世界王者に輝いた。

しかしボクサーの物語には挫折がつきものだ。5度の防衛に成功したジューは無敵におもわれたが、1997年、ビンス・フィリップスにまさかの10回TKO負け。

すぐに復帰したジューは連勝後ディオベリス・ウルタドを倒し再び暫定世界王座を獲得、ミゲル・アンヘル・ゴンザレスとの試合を制し世界王者に返り咲いた。

王座の統一を目指しWBA王者のシャンバ・ミッチェルを撃破、残るライバルは当時無敗のIBF王者、ザブ・ジュダーのみとなった。

ロッキー4に例えられたこの試合、ジューとジュダーはあらゆる意味で正反対の人物だった。ジューが控えめで礼儀正しいのに対しジュダーは生意気で無礼な態度を繰り返した。

ジュダー
「俺がメルセデスベンツでジューはトヨタさ、スイスチーズみないなもんだ。ジューのボクシングは穴だらけだからな。」

そしてジュダーは確かにこういった。

「Winner Take All=勝者総取りでいこうぜ」

当時のアメリカのメディアはジュダーの勢いに浮かれておりジューを軽視していたようだ。スポーツイラストレイテッドではジュダーの特集に11ページも割いた。

ファイトがはじまった。トラッシュトークはいらない。ジューは素早いジュダーを捕まえるのに時間をかけなかった。初回は素早いジュダーにポイントを譲ったものの、続く2回、エキサイティングで情け容赦ないパンチでジュダーを倒した。生意気なニューヨーカー(ジュダー)は派手に倒れ、立ち上がろうとして再び顔面からダイブした。レフリーのジェイ・ナディは脚が言う事を聞かないジュダーをストップ。ジュダーはレフリーに抗議し殴りかかりそうな勢いだ。周囲が制止し、ナディは眉をひそめた。悪態をついた分、滑稽で哀れな姿だった。反対に涼しく一撃で仕留めたジューはリングのコーナーで静かに勝利を祝福した。

ジュダー
「コンスタンチン・ジュー、お前はレジェンドだよ」
更衣室でジュダーは言い放った。

その後、ジュダーから再戦の申し出を受けたジューは微笑んだ。

ジュー
「あなたが記者会見で言った言葉を覚えているかい。Winner Take All・・・今度は私がその言葉を返すよ、ブーメランのようにね。」

その後、ジューは自分のwebサイトで「Winner Take All」というグッズを販売した。

現在3人の子供の父親でもあるジューは平和に暮らしている。

ジュー
「アメリカでは私は過小評価されてきたけど、ベストである事を証明できたとおもいます。3本のベルトを統一しました。トップコンテンダーの誰からも逃げずに戦いました。とても幸せです。私にはリングをリスペクトするという個人的な信念があります。

たくさんのトラッシュトークがありましたが、それは個人的には何でもありません。私たちは全て人間です。誰かを憎む必要がありますか?そんな事をしたら必ず自分に返ってきます。」

成功してもジューの「規律」と「品位」ある生活は最初からさほど変わっていない。常に初心に帰り、「平凡」な能力だった子供はどんな状況でも決して「平凡」でないことを成し遂げてきた。

ジュー
「私よりも遥かに強く、はるかに速い少年たちがいました。しかし結局私は彼らを打ち負かしました。彼らよりも少しだけ厳しいトレーニングをしてきたからです。そして私は彼らが望んでいるものよりも少しだけ多くのものが欲しかっただけなのです。」

読みたい、書きたいボクサーの記事が常にあるわけではない。これはたまたま見つけたものです。恐らくジュダー戦後、まだ引退前でこの数戦先にまさかリッキー・ハットンに敗れ引退するとは誰もおもわなかったであろう時期のものです。

伝説のフリオ・セサール・チャベスに本当の意味で引導を渡したジューの通算戦績は31勝25KO2敗というものだが、なぜ2敗を記録したのかわからないほど強かった。恐らくビンス・フィリップス戦は油断か相性かコンディション、アクシデントか、最後のリッキー・ハットン戦はパッキャオがジェフ・ホーンに負けたような変な試合に過ぎなかった。

「Winner Take All」

全てを成しえたジューはジュダー戦後1年に1度の試合しかしておらず、ハットン戦も既にピークアウトのタイミングだったのだろう。

「平凡」な少年を強調するジューだが、あの独特なファイトと強靭破格なパワーは内山高志のようにケタ違いであり、「神様からの贈り物」に感じてならない。しかし内山も大学ではレギュラーにもなれずにカバン持ちだったと言う話だから、「規律」と「品位」がもたらした産物なのだろう。

ロシアの母とモンゴル系の父、やはり底知れぬモンゴリアンパワーを宿していたとしかおもえない。

スーパーライト級、歴代最強のパンチャー、ベストボクサーは個人的にはコンスタンチン・ジューかアーロン・プライヤーで決まりだが、より潔白なのがジューという印象だ。

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原始的で単純明快なスポーツです。生涯一度の敗北、無敗で引退したボクサーもいます。負けても次頑張りますというスポーツとは違う残酷さ、無常さが好きです。

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